第五十二話

「VRDS-NEO」



第二部 「SACDの潜在能力が開花する瞬間」

1.基本はCD再生にあり

VRDS-NEOを搭載した新製品は二機種あるが、私は音質を追求したCDとSACD専用プレーヤーのX-01を中心に試聴した。 しかし、外観も価格も同様という姉妹機U-X1との音質的な違いに関しては、既に私のweb siteのBrief News No.250No.253で述べているので参考にして頂ければと思う。そして、遂に量産第一号の入荷があったのが2003年12月2日だった。 その一週間後、前作の随筆で詳細を述べているAvantgarde TRIO+2BASSHORNが写真のようにセッティングされた。 今までは試作段階ということでサンプル機材の滞在時間も限られており、B&W NautilusとROCKPORT TECHNOLOGIES ANTARESを中心に試聴してきた。 そして、最終的な仕上がり前の音でもあり、Brief News という情報量での公開だったこともあったが、やっと量産機が常設できたことから、 タイムリーに導入されたTRIO+2BASSHORNで本格的な試聴を開始したのである。 写真1でもご紹介しているが、Avantgardeの間にはJM lab GRANDE UTOPIA Beの姿も見えており、日本でもここだけという規模の演奏を実現している。

ESOTERIC G-0s(AC DOMINUS)  ⇒  Esoteric X-01(AC DOMINUS) ⇒  PAD BALANCE DOMINUS 1.0m ⇒  Viola SPIRITO(AC DOMINUS) ⇒  (PAD BALANCE DOMINUS 7.0m)  ⇒  Viola BRAVO 2BOX SET (AC DOMINUS)  ⇒  PAD DOMINUS V-Bi-Wire 5.0m ⇒  TRIO+BASSHORN

前作の随筆でもお伝えしているように抜群の相性を見せたViolaの導入が間に合った。 このようにシンプルなものであるが、Avantgardeのパフォーマンスを完全に引き出している。
 さて、超強力な新メカニズムVRDS-NEOを搭載しているとはいえ、ここのリファレンスとしているP-0s+G-0sと、 dcs 974+Elgar plus 1394でSPDIF-2によるDSD伝送でのCD再生音と比較すれば、一体型プレーヤーのX-01が直ちに兄貴分のシステムを上回るということは私も期待していないものだ。
しかし、X-01を評価する水準をいたずらに低く設定しようなどとはまったく考えていない。むしろ、この試聴環境でのハードルを高く設定して評価しなければというのが前提である。 従って、P-0sシステムとは違ってSACDが再生できるということだけで、X-01の価値観を高めようなどとはまったく考えられない。 圧倒的多数のタイトル数が存在する現行CDの再生こそがX-01の評価のスタートであろう。
 私は前作の随筆でTRIO+6BASSHORNを評価するに当たり、"低域のモーメントに影響されない解像度"という表現でしていたものだが、 実はこの見方はトランスポートやプレーヤーのメカニズムの分析にも共通する解釈があるものだ。
そこで前作でもTRIO+6BASSHORNの分析において、バックの伴奏がパーカッションを中心としているヴォーカル・アルバムであるこれを聴いてみることにした。 Jennifer WarnesThe Hunterである。
この8トラック目の「Way down deep」を最初にかけてみた。すると…?
まず記憶にあるTRIO+6BASSHORNとの対比がまず脳裏をよぎった。
今回の2BASSHORNという構成のまとまりの良さである。前回の6BASSHORNのコントロールパネルにあるチューニングでは、"FREQUENCY"は下限の60Hzとして、"VOLUME"を11時の角度に設定していた。
私はBASSHORNが受け持つ超低域の再現性でスタジオ録音でのフォーカスが鮮明に出ることを重視していたので、このようなセッティングとなったが、 今度の2BASSHORNでは音源が三分の一になるので量感も意識して再度チューニングを取り直した。
結果として"FREQUENCY"は70Hzとし"VOLUME"は1時の角度としたのである。 これで遜色なく6BASSHORNで経験したバランス感が得られた。しかし、ここで思わぬ副産物が現れたのである!?
低域の音像に以前よりも個体感があり、BASSHORNが発する打音がまとまっているのである。
TRIOのLow-/Midrangeの下側は自然減衰で18dB/octとなっているが、そのLow-/Midrangeホーンの存在感が以前よりも濃厚に感じられ、テンションと切れ味が向上しているように思われたのである。
なぜか? と色々と推測するに、写真1のようなセッティングで各々のBASSHORNがTRIOのLow-/Midrangeに接近していることとBASSHORNの置き方によって双方の連続性を高めたのか、 あるいは6BASSHORNという大きな反射面がなくなったせいか、あるいは単純にこの試聴室との相性なのか? いずれにしても二つのBASSHORNというケースも、6台のBASSHORNに比較して一味違う素晴らしいパフォーマンスと調整のしやすさが感じられたのである。
さて、これにX-01がどう絡んでくるのか…?
トーキングドラムと思われる深々とした打音の連続だが、この打音のインパクトの瞬間がことのほか鮮明に感じられ、引き伸ばされる余韻にもしっかりと重量感が備わっているのである。
オール・ホーンシステムならではのヴォーカルの押し出しと見事な定位感、その割にバックコーラスがすーと距離感をとって後方で展開し、エレキベースも埋もれずにしっかりと脇を固めた演奏を聴かせる。
これだけ聴いても不満を持つ人はいないだろう。
 いやいや、安易な判定はいけない!! 早速次の曲だ。10トラック目の「I can't hide」をかけてみることにした。
これは前曲よりも様々なパーカッションがちりばめられており、ススライドギターが後方からのどかさを思わせる演奏を忍ばせてくる展開が印象的だ。 そして、たっぷりとした低域の連続がシステムのキャラクターをよく引き出すのが面白いところだ。
ドラムなどのパーカッションだけではなく、同時にヴォーカルにおける再現性をもチェックしたいという選曲であるが、これが色々な視点を与えてくれるものである。
 さて、この曲を聴き始めてしばらくしてから…、ふと思ったのだが、P-0sやP-70との同社のメカを搭載したコンポーネントとの比較はしているのだが、 第一部で紹介しているS社製メカを使用していると思われる他社の同アイテムに属するプレーヤーと比較してみたくなった。
そのプレーヤーは某社としか表現できないが、ESOTERICを語るためにどうしても自分自身を納得させるための基準が欲しかったのである。そして…!? 

「・・・・・!? え〜!! こんなに違うの〜!!」

この実感は某社のプレーヤーの音質を語ることでは表現したくないので、再びX-01に切り替えて同じ曲を聴き始めた。 オーディオとは面白いもので、そのものだけを聴いている分には「ふむふむ…」と何も疑問が起こらないものだが、比較してみることによって想像以上の相違が見えてくるものである。
某社のプレーヤーに対して「I can't hide」では冒頭のドラムロールからして音像の鮮明さが違う。今まで無造作に空間に放出してきた低域が、 まるでセルロイドの下敷きに撒き散らした砂鉄に裏側から磁石を近づけたときのように、ぐっと打音の中心点にエネルギーが集中して密度感を高めるのである。
これは誰が聴いても一目瞭然だ!! クラベスなどの高音のパーカッションもフォーカスがピンと合っている感じで打撃の瞬間が見事に捉えられている。 この違いの大きさに我を忘れて再度「Way down deep」も比較しなおしてみた。
すると…!? 立ち上がりの鋭いパーカッションと低域の密度感が高まっていくということは同じなのだが、ヴォーカルに関しての大きな違いが見えてきた。それでは、ともう一曲を選び出す。 2トラック目の「Somewhere, somebody」をかけてみた。エレキベースのソロにラテン楽器のギロが軽妙なリズムを上乗せしている。 このギロとはひょうたんを乾燥させ、ギザギザを着けた楽器で木の棒でこすって音を出すものだが、今までは若干湿り気のあるギロだったものがカラッと乾燥して響きが澄んできたではないか。 そして、ヴォーカルが入ってくると…。

「えっ!! ほんとに!?」

と、我が目を疑う…。ここで"我が耳"としなかったことは、私の近況にも関係があった。
恥ずかしながら私も視力は年々衰えているのか、乱視がひどく視力検査の一番大きな字も読めないのだが、手元の本や新聞を読んだり、コンピューターのディスプレーを見る分には不自由を感じないものだから 数年間は自分を騙し続けてきた。要するに遠くのものがぼやけても近寄っていけば見えるのだからいいではないか…、という楽観主義でごまかしてきたのだ。 夜空の月が二重に見えても、生活には差し支えないだろうということで、聴覚には凄いこだわりを持ちながらも視覚にはてんで無頓着という人間であったものだ。
しかし、前回の運転免許証の更新時の視力検査ではひと騒動あって、遂に運転するときにはメガネをかけるようになった。ズバリ!! VRDS-NEOは聴覚の眼鏡効果を聴く人にもたらしてくれたのである。
 焦点がビシッと合うということは、瞬間的に物が小さくなったように感じられるのだが、このときのヴォーカルは正にその一言で言い尽くされる変化だった。 そして、同時にメガネをかけたときに見る信号や街中の色々なライトの放つ光が数段色濃く見えるのと同じように、ヴォーカルの色彩感が驚くほど濃密になるではないか。
メガネをかける前は光源そのものから周辺に残像のような光の尾が何本も星型に飛び火するように拡散していて光源そのものの輪郭を見ることが出来なかった。つまり光源自体の形がヒトデ型にゆがんでしまっていたのだ。
しかし、メガネをかけると光源そのものの輪郭が見えるようになり、その周辺に光のグラデーションが発散され消えていく過程が見られるようになる。同じだ!! これも何度もハイエンドオーディオの再現性の事例として述べている例えであるが、音像のフォーカスがピタッと合うと輪郭が鮮明になると同時に、 楽音の核心といえる部分と余韻感としてエコーが空間に漂っていく連続性が見えてくるのである。
一言で言えば音像とエコー感のセパレーションが感じられるようになるということだ。
ハイビット・ハイサンプリングという電気的な情報量の増加は、この余韻感のグラデーションの階調のきめ細かさを加速するものだ。 しかし、このような音像の縁取りを鮮明にして残響との差別化を提示するのは私の経験からしてもメカニズムの完成度による影響力に他ならないのだ。
P-0との長年の付き合いから実感されるメカニズムの追求が、確実に通常のCD再生においてX-01の土台を形成していることが確認された。これはいい!! さて、次はいよいよCDとSACDとの比較である。
 さて、これまでもYo-Yo Maのディスクを試聴に多用してきたが、 今回は通常のCDとSACDが同時発売されたOBRIGADO BRAZが内容ともにX-01の試聴には打ってつけである。
一般的なレベルではハイブリッドディスクでCDとSACDを比較すればよいのだろうが、私には奥の方に刻まれたHybrid Layerの音質がCDだけの場合と比較して今ひとつという印象を持っているので、 CDとSACDで別のディスクとして同じタイトルが発売されたことは好都合であった。
最初にCDを聴き、その次にSACDのディスクに入れ替えてという手順で試聴を開始した。
まず1トラック目Cristal。作曲者でもあるセーザル・カマルゴ・マリアーノが演奏するピアノのヨーヨー・マとのデュオによる録音だ。
私も色々なピアノの録音を聴いてきたが、 ここでのピアノの距離感は近すぎもせず、遠くなり過ぎもせず左右に広く展開しながらスタジオの広さをイメージさせる空間の大きさをエコー感として撒き散らしている。
この時のTRIOのトゥイーターの間隔は3.3m、これは交互にセッティングしたJM lab GRANDE UTOPIA Beのトゥイーター間隔と同じにしているものだ。
今年で60歳になるマリアーノのピアノは心地良い余韻を含ませながらも十分な解像度を持っており、ヨーヨー・マが演奏するチェロの音像の大きさがどのように録音されているかに興味を惹かれる導入部である。
さて、ヨーヨー・マが入ってきた!! あ〜、なるほど…、唸らせる録音である。センターよりもわずかに左側にパンした定位で、細かく刻まれたアルコはピアノのリズム感に良く呼応し、チェロという楽器でのブラジル音楽へのマッチングを見事に提唱している。時折ヨーヨー・マのチェロは長いアルコで美しいバラード調のメロディーを奏でるのだが、Avantgardeのスピーカーは本当に弦楽器の艶やかさを見事に伝えるので感心してしまう。何回かこのCDでの再生をリピートして、いよいよまったく同じSACDに入れ替えた。私はディスクをトレイに載せてから、いきなりプレーボタンを押してしまうのが習慣だが、わずかにカチッという音がして"SACD"の表示がディスプレーに現れてスタートした。

「えっ!! ピアノの打音の濃密さがなんでこんなに違うの!! それにチェロの質感もこんなに違うとは想像以上だ!! 」

ずっと以前にこの随筆の第47話の中の第四部、第四章「contribution to Super Audio CD」において初めて体験したSACDの音質について述べているが、 世界初のSACDプレーヤーとしてソニーが発売したSCD-1の開発段階での音質とP-0を比較したときのことを思わず思い出してしまった。
確かにSACDとしてのスペックは素晴らしいのだが、それだけでは音質を極めたということにはならず、完全にP-0に軍配を上げたものだった。 P-0の凛としたフォーカスの絞り込みとエッジ感の際立ちが大きな魅力であったのに対して、スペックで上回るSACDの再生音は何とも楽音の質感が心もとないものであったのを思い出した。 ヴォーカルのフォーカスは甘く、輪郭の表現はぼかしが入った画像のようにふわふわと漂うがごとくの曖昧さであった。
今回と同じように別のディスクを使いながらの比較試聴ではあったが、SACDとはこんなものか…、あくまでも開発中のSCD-1ということだが、その未熟さを感じるのであった。
 X-01が演奏し始めたSACDは、まさに当時のP-0で私が感じた魅力がそこに表れていたのである。
導入部のピアノはずっしりとした打音のエネルギー感が加わり、そのくせエコー感は先ほどにも増して空間を埋め尽くし、 チェロのアルコといったら弓と弦のたっぷりとした摩擦感が音像の引き締め効果として際立っているのである。
その摩擦感は長いストロークのアルコでは官能的な響きを伴って、思わずそこだけA-B間リピートをかけたくなってしまうような心境にさせられる。いや〜、素晴らしい!! SACDのこの質感はどこから来たんだ?
そこで、開発者であるESOTERIC社長の大間知氏へぶつけた質問を思い出してしまった。
それは"DSD信号をPCMに変換したのでは本来のSACDの良さが出ないのではないか?"ということだったが、大間知社長はただちに明確な回答をしてきた。
川又店長 殿
SACDをマルチビット化した理由 DSD用のDACを並列に配置し使い分ける方法もありますが、ESOTERICとしてはDSDの音質的な不満(主に中低域の楽器の質感、分解能、エネルギー感) を現時点ではマルチビット化することによって改善するのが賢明と考えた次第です。
なるほど!! この音質的な判断の根拠がここにあったわけだ。
姉妹機のU-X1は2chのSACD及びCDの再生には写真1のように左右チャンネルを一枚の基板で再生する。
また内蔵クロックの精度も±25ppmというものに対して、X-01ではクロック精度は±3ppm、そして写真2のように左右独立したDAC搭載基板でアナログ変換を行うものである。 これらがU-X1に対してX-01の音質上のアドヴァンテージとして設計されたものだった。
そして、ここで前述のDSD信号の取扱いを音質的な見地から敢えて88.2KHzのPCMにデシメーションし、写真2のバーブラウン社製高精度DACチップPCM1704を 片チャンネル4個使用して差動動作させるという贅沢をしているものだ。 通常のCDも当然同じDAC基板を通じて再生されるわけだが、上記のように根本的にCDの数倍の情報量を持つSACDの再生方式をPCMに一旦変換してという手法を実際の再生音として実感させられたものだ。
特にX-01でのSACDの再生音については、低域方向に向けての解像度とエネルギー感という音楽のおいしい部分がきちんと表現されているのである。
P-0の試作段階で、私はトップパネルには丸いグラスの窓は不要では…、と疑問を述べたところ、「試聴しての結果として我々はこちらの音質を採用しました!! 」という明確な回答を頂いたことを思い出した。
そうだ、音質的な自己主張があって、それを聴く側も納得できるものであれば開発者の感性とブランドのアイデンティティーとして認めることに私は何の抵抗感も持たないものだ。
スタジオ録音の強烈な打撃音などの低域楽器の再生というものではなく、 空間に広がるアコースティックな録音でX-01の自然な力感に溢れた再現性をピアノとチェロというシンプルな演奏でこそ確認できた一曲であった。
これは幸先の良いスタートだ!!
さて、二曲目はホーザ・パッソスのギターと彼女のヴォーカルが聴きどころのアントニオ・カルロスジョビンの名曲Chega de Saudadeである。
音階が低くなると音像が大きく広がり、高音階になると音像が小さくなるというチェロの録音は手法によって色々な個性を感じさせてくれるが、この曲のイントロでのチェロはその響きがたいへん美しい。 CDでもこのくらい聴かせてくれれば文句なし、と思っているとパッソスのギターが入ってくる。このギターもセンターにポーンと浮き上がり、ヴォーカルの舞台を丁寧に形成してくれた。
本当にTRIOの解像度は素晴らしく、パッソスのヴォーカルを後方に、エコーを引きつつ空間を提示しながらスムーズに導入してくれる。 このままではヨーヨー・マがいなくてもおかしくないのでは…、と思っているとそうではない。ヴォーカルの若干後方から絶妙のアレンジでチェロが空間を縫うようにして存在感を提示すると、 さあ!!ドラムとベース、パーカッションが入ってきて演奏の重厚さを増す。
さあ、この曲はSACDではどうなるか!? X-01のトレイがわずかな唸りとともに閉じてゆく。

「えっ!? 濃厚というか濃密と言おうか。なんでこんなに色彩感に違いがあるんだ!!」

導入部のチェロからして厚い、ギターのアルペジオが力強く感じられる、ヴォーカルはことさらに浮き上がってくる。
私も以前にはSACDは空気感を引き出す…、というようなことを口にしたかもしれないし、雑誌にも同様なことが書かれている。しかし、今ここで起こった違いは楽音に直接感じられる質感の向上なのである。
CDでの演奏で見られていた色見本にはトレーシングペーパーが上にかぶせてあったのか?
今始まった同じ演奏には、色見本のテンプレートの保護シートを取り去って本来の色彩感が目に飛び込んできたかのような違いがある。
CDケースの上から見ていたジャケット写真を、ケースから取り出して直接見たときのような画質の新鮮さがたまらない。CDよりもフォーカスは鮮明になり、エコー感は確実に長く空間にとどまっていて心地良い。今までの認識が次第に更新されていく説得力がX-01にはある。 いやいや、今度はこの曲で…、三曲目のA lenda do cabocloに換えて再度CDで聴き始める。
 この曲はセルジオ&オダイル・アサド兄弟のギターが左右両翼を固め、今度のヨーヨー・マはジャストにセンターに定位を取っているトリオでの演奏である。
ここではヨーヨー・マが時折ピッチカートでギターの背景を飾るのだが、その余韻がうまく捉えられていてゆったりとした聴き心地でシンプルでありながらチェックポイントを複数持っている録音だ。
さて、これもSACDで聴きなおしてみると…。

「あっ!! 抜けてる!! 空間が…」

ゆったりしたアルペジオで始まった左右のギターのイントロだが、先ほどのCDではセンターのヨーヨー・マも含めて何かしら余韻感が連結していたところが感じられたのだ。 それはそれで広さを表現してくれるようで、いいか…。と思っていたら、SACDでは二本のギターの間の空間がすっぽりと抜けているのである。 オーディオ的に表現すればノイズフロアーが見事に低下しているということになろうか。そして、ヨーヨー・マの見せるピッチカートの響きが微風にたなびく綿毛のように そよそよとTRIOのセンターから両翼へと伸びていく。 えっ!! ホーン型のスピーカーにこんな器用な音場感の再現性があったのか!! 先ほどまでは感じられなかった余韻感が、スピーカー周辺のノイズフロアーをぐっと下げたことによって浮かび上がってきたのである。 これは、たまらなく美味な演奏ではないか!!
このCDは税込み\2,520.であるという。SACDは税込み\3,150.だ。発売当初より次第に価格を下げてきたSACDだが、この価格差が聴き手の感性をどのくらいに揺さぶるのか…?
X-01の存在価値は間違いなくSACDの将来性に大きな追い風を吹かせることを私は確信してしまった。
 さて、次にもう1タイトルCDとSACDが別のディスクでコレクションしている選曲で比較してみることにした。 ワレリー・ゲルギエフとキーロフ歌劇場管弦楽団によるシェラザードである。
この4トラック目、第4曲:バグダッドの祭りから終曲までの冒頭から数分程度を比較することにした。毎回の手順通り最初はCDで聴き込む。
さあ、待ち時間を惜しむようにしてSACDに交換してX-01の読み取りを待つ。 聴きなれた主題がセルゲイ・レヴィーチンのヴァイオリンで流れ始めて、先ほどの記憶と照合しながら試聴が進んでいく。

「潤いという言葉で片付けたくはないが、このオーケストラの違いは大きいぞ!!」

 この録音はこの随筆の第50話でも歴史的な背景を解説しているマリインスキー劇場での録音なのだが、 オーケストラの各パートの発する余韻感にどうしても関心が高まってしまった。
SACDでの演奏になったとたんにホールの残響時間が0.5秒ほど長くなったのではと思えるほど、キーロフ歌劇場管弦楽団のすべての楽員が発する余韻の滞空時間が長くなっているのである。 この演奏のスコアーはさぞかし音符の数が物凄いのだろう。管楽器のタンギング、弦楽器のアルコの切り替えし、そしてタンバリンの連打とオーケストラの息も付かせぬ高度なテクニックとゲルギエフのタクトが目に見えぬほどの激しいアクションが見えるようである。 それらの全景が眼前の5メートルほどのステージに描かれていたのだが、どうもCDの演奏ではホールの空気が乾燥していたようだ。 SACDによるX-01での演奏に変わった瞬間から、白っぽく乾燥していたステージやホールの壁板に上質なワックスをたっぷりと塗り込んで磨き上げたように、 木目の流れるさまが木肌の色艶を伴って蘇るようにホール全体が余韻感を吸収せずに空間に留めるようになるのである。
SACDは100KHzまでの帯域を理論上は持っているといいながら、ESOTERICが選択したのはfs88.2KHzというPCM変換での音質評価だったが、それで確保される周波数帯域は44.2KHzまでということを思い出した。 しかし、理論上の高域特性はノイズに埋もれてしまう領域とも言い換えられるのだが、前述の中低域の質感向上ということで 選択したPCM変換という決断は十二分にSACDの潜在能力をX-01によって引き出していると確信されるものだ。
ホールの背景音を見事に再現するX-01のSACDは文句なしにお奨めである。
ここ数年間SACDプレーヤーでは、このフロアーで演奏するにふさわしいものがなく、 ずっとSACDに対しては静観するという立場を表明してきたが、やっと…、やっと新世代フォーマットをここで演奏するにふさわしいコンポーネントが登場したのである!!
 

2.Grande UTOPIAの伝説

もう8年前になる96年7月のこと、日本に初上陸した“JM lab”の『Grande UTOPIA』を取り上げての随筆が、この音の細道 第37話であった。
前作のGrande UTOPIAの詳細はこの随筆で述べているのだが、正確には95年に開発されたGrande UTOPIAが8年ぶりのリニューアルでどこが変わったのか? これを述べ始めると主題が変わってしまうくらいの情報量となってしまうのだが、私がもっとも着目しているのが新旧のエンクロージャーの構造的な違いとクロスオーバー周波数の変化である。
前作のGrande UTOPIAでは400Hzと3KHzで18dB/octの減衰特性を持つ3ウェイだったのだが、今回のGrande UTOPIA Beでは50Hz/250Hz/2.5KHzという4ウェイ構成となったことである。 ここでは詳細は述べないが、38センチ口径の大口径ユニットを50Hz以下で駆動するという強力なサブ・ウーファーをシステムに取り込み、サマリウム・コバルトマグネットを使用した ベリリウム・ダイヤフラム採用のトゥイーターによって40KHzまでをもカバーするというGrande UTOPIA Beは、今回のX-01でのSACDの試聴には打ってつけのスピーカーである。
国内唯一のGrande UTOPIA Beをここで使わない手はない!!そこで…、早速システムを切り替えて更に試聴を続けていくことにした。

ESOTERIC G-0s(AC DOMINUS)  ⇒  Esoteric X-01(AC DOMINUS) ⇒  PAD BALANCE DOMINUS 1.0m ⇒  Brumester Pre-Amp 808 MK5(AC DOMINUS) ⇒  (PAD BALANCE DOMINUS 7.0m)  ⇒  Brumester Power-Amp 911 MK3 (AC DOMINUS)  ⇒  PAD DOMINUS V-Bi-Wire 5.0m ⇒  JMlab Grande UTOPIA Be

まずは通常のCDから検証してみることにした。
最初は長年の試聴経験の中でバイブル的な存在として多用してきた大貫妙子の22枚目のアルバム"attraction"から 5トラック目ご存知の「四季」をかけてみた。
ギターとウッドベースのイントロからヴォーカルの導入部へと続く過程で、このスピーカーとシステムの性格が先ず印象に残った。
Grande UTOPIAのミッドレンジとトゥイーターはダポリット・コンストラクションと呼ばれる仮想同軸レイアウトになっているのだが、 それを上のウーファーと下のサブ・ウーファーまでを連係させた「Focus Time」と命名している。リスナーから見て等距離となるように、 横方向から見ると各ドライバーが円周上に弧を描くようなレイアウトをとっているのである。
ヴォーカルを最初に選択しての試聴は、このスピーカーの持ち味である巨体に似合わない緻密な音像の再現性がプレーヤーのメカニズムをどのように捉えてくれるか、という興味からであった。
自分でも何回聴いたか覚えていないほどで耳にタコ状態の選曲だが、たちどころに演奏に引き込まれてしまった。 ギターとウッドベースとヴォーカル、この三者に各々違ったリヴァーブがかけられたレコーディングなのだが、それぞれの音像が際立って鮮明に、 かつ巨大なスピーカーにしては戸惑うほどの余韻を発散してくれるではないか!!
 さて、実はこのディスクはここに同じものがもう一枚備えてあるのだが、何のためかというとハルズサークルにおけるヒット商品となったCD Sound Improver(以降CSIと表記)での使用前・使用後の比較のためである。
私はこの曲を数十秒間聴いて、音質をきっちりと記憶にとどめて直ちにCSIで加工したディスクに入れ替えて再度X-01をスタートさせたのである。すると…!?

「おー!! 参ったぞ、さっきのは何だったんだ!!」

激変とも言うべき音像と情報量の豹変に半分呆れながら、しかし楽しむことを忘れずに演奏に聴き入ってしまった。 私はこれまでもNautilusに代表されるような“箱の存在感がないスピーカー”で得られるヴォーカルなどが空間に浮かび上がる音像提示が可能なことをハイエンド・スピーカーのあるべき姿として提唱してきた。
その対極にあるのが、四角い箱型キャビネットと平面のフロントバッフルで構成されるスピーカーということなのだが、X-01とこのシステムで聴くGrande UTOPIA Beには全くその方程式があてはまらないのである。
視覚的には威風堂々とした巨大なエンクロージャーのスケールがどうしても強烈に印象に残るのだが、そのようなスピーカーは往々にして音像は大きく フォーカスがまとまらずに左右のスピーカーのフロントバッフル面を拡大したスクリーンに楽音が張り付いてしまうような印象を受けることが多かった。一言で言えば平面的であり立体感が乏しいということか…。
左右チャンネルのトゥイーターの間隔は3.3m、私からの距離は約4.5mというセッティングでGrande UTOPIA Beに対峙しての試聴だが、CSIで加工したディスクをまったく同じボリュームで再生した瞬間に表れたのは 見事にダイエットに成功した音像であった!!ギターにしてもウッドベースにしても、ピッチカートの瞬間に投影される音像の大きさが半分程度に引き絞られ、 ヴォーカルに至っては今まで両手を口元にかざしていたものを取り払ったように音源があるはずもないセンターの中空に浮かび上がるのである。
この時のヴォーカルの変化は、歌手の全身を照らしていたスポットライトを絞り込んで30センチ程度のピンスポットで歌手の頭部にだけ当てられたようなイメージを思わせるものであった。
照明を落とした暗いステージにすーと浮かぶ大貫妙子の表情と口元が暗闇の中で輝くようであり、彼女の発するエコー感がしとやかに背景の闇へと消滅していく過程が克明に描かれる。 そして、この演奏の半ばから参加するストリングスが間接照明によって位置関係を聴く人にわからせながらも、ヴォーカルとの遠近感を忠実に再現するものだから一切の混濁がない。 終盤でGrande UTOPIA Beの背後から聴こえてくるような鈴とクラベスが、あたかもセンタースピーカーがあるのではと思わせるような明確な定位で繰り返される。
 CSIでの使用前・使用後の変化というのはプレーヤーの能力によって現れ方が違うものだが、これまではP-0sを使っての加工処理後の音質変化を大きく評価してきたものだった。
X-01の卓越した情報収集能力は削られたディスクにおいて、レーザー光線の内部反射がもたらした変化を正確にピックアップしているではないか。 優秀なスピーカーとシステムによってディスクの加工による情報量の違いが引き出されたということは、 もっとも上流に位置するX-01が見せたディスクのコンディションに対する忠実性として私を驚かせたものであった。これは正確だ!!
ヴォーカルの再現性が外見からの予想とは相反する緻密な表現を見せるGrande UTOPIA Beなので、 次なる関心はCDとSACDでの同じタイトルでのヴォーカルで比較してみたくなった。
そこで選択したのがこれ。ご存知Diana KrallのThe Look of Loveである。
同じタイトルがあるので、ハイブリッドディスクでのCDレイヤーでの反射率の低さを気にせずに比較できるというものだ。
 話は変わるが、1976年のモントゥルー・ジャズ・フェスティヴァルでのライブ録音で当時はLPレコードを聴きまくっていたモンティ・アレクサンダーのトリオでは ジョン・クレイトンがベースを担当し、当時ドラムをやっていたのがジェフ・ハミルトンであった。
実は、もう20年以上前のことになってしまったが、モンティの来日コンサートのチケットを入手して結婚前の家内を連れて出かけたのだが、プログラムでは当日のメンバーは モンティ・アレクサンダーとジョン・クレイトンに加えて、ドラムはエド・シグペンであった。ところが、幕開きの前にアナウンスが流れて…、「予定されておりましたドラマーのエド・シグペンが急病のため、 本日はドラムをジェフ・ハミルトンに変わって演奏いたします…」と放送された。「お〜、あのときのモントゥルーと同じメンバーが揃ったんだ!!」と私は狂喜してしまった。
モンティが最初に叩いた和音展開で「あっ、あの曲だ!!」とすぐにわかるほど聴き込んでいたものであり、最後のリパブリック讃歌ではホール全体が手拍子でノリノリというコンサートだったのを思い出す。 当時は"総立ち"という風景はなかったものの、私は一人でも立ち上がって拍手したい衝動にかられたという初めての経験だったのを鮮明に覚えている。
そのジェフ・ハミルトンも右のように今はかなりのおじさんになってしまったものだが、このアルバムでも若手のクリスチャン・マクブライドと軽快なリズムセクションを構成している。
この中から1. S'wonderfl で比較してみることにする。まずはCDの演奏をリピートして十分に記憶にしみこませてみる。さて、SACDで同じ曲をスタートさせると…!?

「おいおい、これは何としたことか!!」

まず印象に残った変化はイントロから聴こえて来るセンターより左よりに定位するジェフ・ハミルトンのシンバルワークの音色の違いだ。 そして、パーカッションの名手ポリーニョ・ダ・コスタの右チャンネルから聴こえて来るシェイカーの質感の違いである。
CDではシンバルの裏側にフェルトが貼り付けてダンプしてあったのでは、と思わせるほどにスティックで叩いた瞬間から余韻の最後まで澄み渡った響きに変貌し、 シェイカーの中身も砂粒ほどに小さくなったのでは思われるように高域特性が伸びていることが聴き取れた。 そして、ダイアナのヴォーカルが始まった瞬間に、その音像の大きさが先ほどのCSIの使用後のようにきゅっと引き締まっていることに愕然とする。なぜか…?
 それは、今までにSACDプレーヤーとP-0sを使ったCDシステムとの比較において、必ずと言って良いほどSACDでの音像の方がヴォーカルに限らず全ての楽音でフォーカスも大きくなり 圧倒的にP-0sが作り出すフォーカス感の方が引き締まっていたからである。
前述のように高域特性が伸びて余韻感も芳醇になることはSACDの恩恵として理解できるものであるが、今までは音像の囲い込みというか、輪郭の表現力というか、 音像を構成する外周のシルエットがにじんでしまっていたのだ。 従って、私としてはSACDのスペックの素晴らしさを認めようと思っても、メカニズムが完成されたP-0sと比較して、楽音の輪郭が不鮮明では評価するに至らずにいたのである。
ところが、X-01で聴くSACDは以前の他社製SACDプレーヤーでの失望感を穴埋めするどころか、同じ曲でもすべての楽音のフォーカスをびしっと決めているではないか!!
 演奏が進みオーケストラのフルートがダイアナの背後で空間を膨らませるように展開し、ストリングスが見事な奥行き感でダイアナの後方でゆるやかなアルコを繰り返す。 そして、ベテランの余裕でジェフ・ハミルトンが巧妙なリムショットでリズムを刻む。これらすべての要素を分解してCDと比較しても、やはり音像の再現性はこれまでのどのSACDプレーヤーでも体験できなかった定位感と実在感をもって演奏されるのである。
 周波数特性というスペックはSACDの最も大きなアドヴァンテージとして認識できるものであるが、それらは電気的な作用によってプレーヤー内部で作り出されたものだ。しかし、メカニズムが貧弱であると、SACDのメリットであるはずの高域特性の素晴らしさは空気中に漂う霧のように発祥元が不明な余韻として演奏全体に撒き散らされるだけだったようだ。 その証拠にX-01でのSACDでは、音源のフォーカスがピンポイントに捉えられるために、その楽音がエコー感の源であるということを2チャンネル再生においても明確に提示してくれるのである。
従って、私の過去の経験とはまったく逆にSACDの方が三次元的に定位感を認識することができ、P-0sの有するメカニズムの完成度による音像の鮮明さに加えて、 SACD本来の高域特性の充実による余韻感の素晴らしさが表れてきたのである。
高域特性の伸びによって得られる情報量の拡大は電気的な進歩であるが、音像の輪郭表現を司るのはメカニズムであるということだ。 そう、クリスチャン・マクブライドのベースが浮き上がるように鮮明になったことでもVRDS-NEOの貢献がSACDの潜在能力を引き出したこととして誰にでもわかって頂けることであろう!!
電気的スペックとメカニズムが再生音に対してどのように貢献するのか、 その音質変化のベクトルを棲み分けているということが実感されるにつけ、どうしても試したくなったのがこれである。
Audio labの「THE DIALOGUE」から(1) WITH BASSと(3) WITH VIBRAPHONEのトラックである。
残念ながら、このディスクはCDのみというコレクションがないので、ハイブリッドディスクのCDレイヤーとSACDレイヤーとの比較となった。
まず、X-01のリモコンの「PLAY AREA」をCDとして、0.6mmの深さにあるCDレイヤーを選択する。さあ、猪俣 猛のスリリングかつダイナミックなドラムが始まった!!
最初に私を襲ったのは、50Hz以下を受け持つ38センチ口径のサブ・ウーファーを搭載するGrande UTOPIA Beの凄まじい高速反応のインパクトと、 Brumester Power-Amp 911 MK3をブリッジ動作させてモノラル駆動させた 4Ωで770Wという超強力なパワーの炸裂である。
このGrande UTOPIA Be搭載されたトゥイーター以外のドライバー"W"coneは前作のUTOPIAから開発されたものであり、 それを更に発展させてきたものだ。
前作のGrande UTOPIAはネットワークでは400Hz以下の帯域の信号を、上にある27センチウーファーと下の38センチウーファーの両方に配り、 それをメカニカルなチューニングで二つのユニットが鳴らし分けるというものだったが、今回は明確に50Hz以下だけを38センチ・ウーファーに送り込み、 250Hzまでを上の27センチウーファーに振り分けるという仕様に変更されている。 その結果が、この曲の冒頭からキックドラムの圧倒的なスピード感と制動感に表れており、前述のBASSHORNとは違って個体感を印象付ける低域を私の体全体に伝えてくるのである。
50Hzより上では動かなくていいと言われた38センチドライバーは思いっきり重量感を含ませ、逆に50Hz以下の大きなストロークは心配しなくていいと言われた27センチドライバーは打撃音のインパクトを 高速にトレースするようになった。また、このような打楽器で瞬間的に大きな音圧を求められても2個のミッドレンジが楽々とドラムヘッドのテンションの高まりを実現している。
最小インピーダンスが5ΩというGrande UTOPIA Beに対して、700W以上を保証する911MK3が完璧なアシストをしてくれ、CDレイヤーという前座の試聴にもかかわらずスリリングに展開する演奏に ついついボリュームが上がっていく…。
ヴォーカルのように連続する楽音にポイントを置いてきた先ほどまでの比較とは対照的に、このテストではトランジェントの素晴らしさが新幹線の車窓から飛びすぎていく景色のように眼前に展開する。 ひょっとしたら、これで十分かも…!?さて、再びリモコンで「SACD 2ch」に戻してX-01をスタートさせた!?

「おお〜、全然違うぞ!!」

CDで聴いた猪俣 猛のドラムはどうやら湿度80%のスタジオで演奏していたのではないか?と思われるように、SACDでのドラムは乾燥注意報が出ている真冬の天気のようにからっとしているのである。
キックドラムは38センチのサブ・ウーファーの威力なのか、超低域まで伸びているので指向性を感じることができず、音源としてシルエットや投影面積で例えることはできないのだが、 重量感を同じくしても打音として感じられる時間軸がぎゅっと圧縮されているのに気が付く。
そう、立ち上がりも減衰も高速化されているのである。それにヒットするたびにスネアーのテンションがパンパン!!とはちきれんばかりに高まっていて、 仕上げに霧吹きをかけてから乾燥させた張り替えたばかりの障子紙のようである。
アナログ音源をDSD変換してのSACDだから鮮度が高いのだろうが、このような打音がテンションを高めて聴こえるというのは高調波をより多く含んでいるということであり 周波数特性の拡大が計り知れるものであるが、先ほどの体験から推測されるメカニズムによる輪郭表現と立ち上がりの加速感というものはX-01で聴き始めたときから感じられたことである。
その証拠に、同じトラックに入っているウッドベースの音像の位置がSACDにしたとたんに目測で30センチ程度は上のほうに持ち上がり、 さきほどまでピッチカートの後に周辺に撒き散らしていた開放弦の響きも密集してきたではないか。そして、シンバルの質感と余韻感にまるで銀粉をまぶしたように輝きが伴ってくるので、スピーカー周辺が明るくなったように感じられる。更に(3) WITH VIBRAPHONEでのビブラフォンを叩いた瞬間に隣の鍵盤が共鳴したり、羽根が回ってビブラートを繰り返す際の付帯ノイズが聴こえたりと情報量の拡大にも目を見張るものがある。

演奏されている情景に光を!!

こんな例えでイメージされるVRDS-NEOによる聴覚の眼鏡効果、がシステムを違えても間違いなく存在していることが確認された。納得のSACDである!!
私は今までSACDの再生音をこの試聴室のリファレンスとして採用することはなかったが、 それはどうやらP-0sという究極のメカニズムとの対比において電気的なスペックの向上が私の求める近代的なスピーカーやシステムに対して求めるものとベクトルの方向性が違っていたのでは…、 という思いが試聴を続けるにつれて実感されてきたものだ。
そして、VRDS-NEOを搭載したX-01でCDとSACDの両者の相違点を確認するに連れて、確立されたメカニズムという確固たる土台の上で両方式を比較することによって、 SACDの本来の姿が浮き彫りになってきたといえるだろう。つまり、今まではメカニズムの未熟さがSACDのスペックの素晴らしさを穴埋めすることができない時代だったと言えるのではないだろうか。
 99年の5月にSACDが登場してから現在に至るまで、私にとってのSACDの冬の時代がやっと終わりを告げたようである。 これからは、このH.A.L.にもSACDディスクのコレクションが日増しに増加していくことであろう。
今まで静観してきたSACDにVRDS-NEOが明らかに突破口を作り出したということが今回の結論として最後に申し上げるものである。
米国人の著名なジャーナリスト故ウォルター・リップマンが残した言葉で…、

「テレビは見えるものを映し出すが、新聞は見えないものをえぐる」

という言葉が強く印象に残っている。
プラズマテレビやDVD-Videoに代表されるビジュアル・コンポーネントは見えるものしか映し出さないが、真のハイエンドオーディオは見えないものをえぐり、私たちに提供してくれる。
そのえぐりとってくれる深さの違いが設計者の情熱と感性として使い手を感動させるものである。
今、私に言えることは…、ESOTERICはVRDS-NEOの開発によって前人未到の深さまで、私たちに訴えかけようとする演奏家の情熱と人生そのものを伝えることに成功したということである。


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