第四十七話「純粋主義者」



プロローグ

 平成大不況と言われて久しく時が経ち、グラフの上下動が報じられるのは小渕総理の支持率だけという景気の低迷が続く99年3月の第1週。富山市に本拠を置くシーエスフィールド株式会社の代表取締役である今井芳範氏より突然のアポイントが入った。以前から存在は知ってはいたものの、とんとお付き合いの機会はなく私の方からは特にアプローチすることはなかったのである。私も仕事柄世界中の数多くのオーディオ製品を取り扱っているのだが、それらの取捨選択に関して私の信条としている考え方がある。まったく面識やコミニュケーションのないブランドは取り扱わないのである。もっと単純な表現をすれば、製品の情報を郵便やファックスで送り付けてくるだけの輸入元の商品は販売にまったく力が入らないのである。やはり、海の向こうにいる製作者が情熱をもって作り上げた作品に対して、それを輸入する立場の人が日本人の感性で賛否両論を送り、その作品に対して納得した上で製作者の技術と感性を代弁できるほどの学習意欲をもって製品の紹介に来られるべきであろうと思うのである。雑誌での露出と評論家諸氏の辯舌におまかせするのではなく、少なくともハイエンドと称するレベルのコンポーネントのセールス活動に関して、これらが製作者に対する敬意の表れであると同時に最低条件の礼儀でありモラルであると考えている。こうした考え方の私は必然的に輸入商社と海外のメーカーに対して、こと音質にかかわる要素では要求の度合いも高くなってしまう。しかし、日本のユーザー側に立って製品の完成度や問題点に対して疑問を投げかけて改善していくということも、広範な意味でとらえれば専門店の仕事の範疇ではないかと思うのである。従って、輸入商社にとって私はうるさい存在であるかも知れない。しかし、逆に私が納得し気に入ったものであれば、商社に言われなくても率先して独自の販売プロモーションを展開して商品を紹介し販売してしまうという実績があるのである。何も注文を付けないが消極的で行動しない店あるいは担当者と、言うことは言うがやるべきことは積極果敢に取り組んでいくという姿勢の担当者のどちらが輸入商社にとって有益であるか、私のフロアーの商品構成を観察して頂き、お客様に判断して頂ければよいのではないかと考えている。さて、こうした考え方をしている私が我が意を得たりという程に話が合ってしまったのがシーエスフィールド株式会社の今井芳範氏であった。ハイエンドオーディオの世界はつきあう人間によって大変大きなレベル差を生じるものである。最も大きな要素は一般ユーザーが頼りとする販売店とその担当者のレベルである。つきあっている店のグレードによってユーザーの感性がどれ程磨かれるか、要は訪れるたびに心底おいしいと満足と幸福感にひたれるだけの演奏を聴くことが出来るかという非常に初歩的であり大切な要素がここにある。我田引水な引用で恐縮であるが、私はB&Wのオリジナル・ノーチラスの販売に関しては99年7月時点で発売以来通算で20セットを販売している。これは私が口がうまくて安売りしているからではない。そもそもノーチラス自身が聴く人を魅了するクォリティーを本来有しているのであり、私は努力してそれを引き出しているだけに過ぎないのである。B&Wのトップの人間と話したところ、どうやらこれは世界記録らしい。こうしたこだわりと感性に根ざしてハイエンドと称されるカテゴリーの商品群を取り扱う輸入商社と専門店という流通の枠組みの中で、うるさい私が尊敬の念を抱くほどの人物は多くない。ハイエンドの世界では流通の段階でも人間同士の信頼感が本当に大きな要素を占め、今井氏とお会いできたことと同氏が取り扱う製品の本質が、今回の随筆を執筆しようと決意した大きな原動力となったものである。

 

第一部「透明な志ーpersonal column」



第一章「encounter」

 シーエスフィールドが株式会社となったのは2年前であるが、商社として輸入業務を開始してからはすでに9年目という順調な発展を遂げておられる。しかし、この根は深かった。何と大正13年5月に設立された「今井ラジオ店」を受け継がれ実兄が経営されておられた家電店でオーディオを販売しておられた今井氏は、1980年にオーディオ専門の小売店として「クリアーサウンドイマイ」をスタートさせた。北陸本線で富岡から城端線に乗り継ぎ終点となる人口一万二千人の町城端。西に医王山、南に五箇山、東には大牧温泉、金沢市と富山市のちょうど中間地点の山麓に位置する城端町に一九年前に産声をあげたのが今井氏の店である。その後富山市に「クリアーサウンドイマイ富山店」を88年に開店し、既存の輸入オーディオ製品とは異なるコンセプトの商品を国内の市場に紹介しようと90年に輸入オーディオの総代理店業務を開始している。そして、賢明な判断として自社での小売販売部門と輸入業務を人材/資金/管理に至る細部まで分離し、今井氏自身の国内におけるスタンスを取引先各社に対して明確にしておられるのである。その取引先は卸しの代理店として関東関西に一社ずつあるが、大変興味深いのは関東の某代理店が当社以外の全ての販売店を担当しているということである。これは言い替えればシーエスフィールドの代表である今井氏ご本人が直接担当している販売店は全国で数店あるのだが、東京をはじめとする関東一円ではダイナミックオーディオ一社のみということなのである。これまでご縁がなかったことは良い意味で刺激剤として、私はこの状況を大変に幸運であったと思っている。そして、87年にアメリカのスピーカーメーカーであるヴァンダスティンの輸入を開始し、このスピーカーを何とかモノにしようという思い入れから92年に輸入を開始したのがPAD(ピューリスト・オーディオ・デザイン)である。他にもルームチューンやバンパイアといったアクセサリー関係も輸入をはじめ、皆さんもご存じのように取り上げる販売店も徐々に増えていったのである。 さて、今井氏が来訪されたのは3月9日であり、お互いにこれまでの疎遠を詫びるでもなく双方のハイエンドオーディオに対する哲学ともいえる思いを披露しあい、早速今後についての抱負を語り合ったのである。そして、必ずと言っていいほど業界関係の来訪者に私が聴いて頂いているのが当フロアーにおけるノーチラスの演奏である。今井氏がどのようなインパクトを受けられたかは推測することしか出来ないが、お返りになる時間が迫りお見送りをした後で、「すみませんが…。」と忘れられたコートを取りに戻っていらっしゃるほど氏の胸中に深く浸透し興奮された演奏であったようである。聴きながらひとしおの感激を語られる今井氏に、私が提案したのはノーチラスとPADの共演であった。それはオリジナル・ノーチラスという私のリファレンスに対してPADの技術と感性がどの程度の訴求力を持っているのか、以前から興味があり疎遠であったがゆえに果たされなかった未知のペアリングである。皆様も想像できるように、これから始まる体験と分析が私のレベルに達しなければ執筆の意欲はわかなかったであろうし、私が担当させて頂いているお得意様の演奏のクォリティーも上がらないことだっただろう。PADを本当に理解するということはどういうことか。そして、それを実演できる場所として当フロアーとノーチラスが皆様に提示する音楽の世界とは。



第二章「motivation」

 米国テキサス州ヒューストン市郊外メキシコ湾内のガルベストン湾の近くにPADは一九八六年に設立された。1845年28番目の州として合衆国に加盟し約1700万人の人口を抱え、オースチンを州都とするテキサス州は約70万平方キロという米国最大の州である。ところで、アメリカ合衆国の首都であるワシントンはワシントン州にあるか? 答えはブー、である。ワシントン州の州都はオリンピアであり、地図上では合衆国の最西最北端と一番端にある。ところで首都のワシントンはバージニア州に位置しており、約17万平方キロで人口約500万人ということから如何にテキサス州が広大な土地であるかがわかる。テキサスというと西部劇や砂漠というイメージが強いが、自然環境としては緑が豊富であり温度湿度も日本の夏並という南洋の趣であるという。ヒューストンからPADに向かう道中では地平線を見渡すことが出来、道沿いにはダウケミカルの巨大な工場が延々と続いているという。しばらく行くと牛が放牧されているのが見えるのだが、あまりにも広大すぎて牛がねずみに見えてしまったと今井氏は語る。そして、PADの社長であるジム・オッド氏に「一体どれくらいの土地を所有しているのか」と尋ねると「よくわからないが、ここから見渡せる範囲すべてだ」といういかにも南部人らしい鷹揚な返事があったという。このように広大な土地柄、一見したところで何もないように思えるが、実はNASAやダウケミカルのような最先端の軍事、ハイテク、化学分野の巨大企業が数多く誘致され、その下で無数のハイテク関連企業が厳しい生存競争を繰り返しているという。しかも、我々が想像する下請け中小企業とは違って規模は小さくとも独立心が強くプライドの高い会社が多いという。さて、それではPADの社長であるジム・オッド氏とはどのような人物なのであろうか。
 彼のフルネームはジェイムズ・フィリップス・オッド、1950年生まれである。身長は177センチ、体重は約94キロ、驚いたことに空手の黒帯であり、日本の武士道や文化に大変強い関心を持っているという。大変な愛妻家であり、オッド氏に負けず劣らずの体格の奥様はジェミー、根っからの専業主婦でオッド氏の研究やビジネスにはほとんど口を出さない良妻賢母タイプであるという。年頃のお嬢様がお二人、ごく最近結婚された25歳の長女キンバリー嬢はヒューストン大学で優秀な成績を納めたという才媛でありPADのマネージメントは彼女が切り盛りしているという。一方次女のホリー嬢は対照的に活発な女性らしくPADの工場で大きな声を出しながら男たちの中で仕事をしているという。ピューリスト・オーディオ・デザインとはジム・オッド氏のご家族を含め、わずか25名という社員数の家庭的な雰囲気の会社なのである。
 アメリカ国民がベトナム戦争に勝てないという疑問を持ちはじめたころ、まだ20歳だったオッド氏は米国空軍に在籍し、電子センサーシステム、レーザー、微光カメラシステム、電子戦制御用コンピューターなどを専門に従事していた。兵役を終えると彼は大学に復学し、81年にはブレシアカレッジで電子工学の学位を取得し、84年にはミシガン大学で物質工学の学位を取得する。他にもウェスティングハウス、DEC、SUN、ジェネラルエレクトリック、MODCOMなどでコンピューターとコントロールシステムに関する数多くの専門コースを受講している。その後オーディオ業界に入る直前まで複数の原子力発電所に勤務し計器制御や監督を勤め、コンピューターの主任エンジニアとしてハード・ソフト両面での新開発を行なってきた。このようなキャリアを持つジム・オッド氏が流体を使用したケーブルに関心を持つようになったのは1983年のことである。その頃彼は海底油田を探索する会社に勤務しており、海底で爆発を起こしコンピューターに連動する震源探知機を使って油田の位置情報を探索するという仕事に取り組んでいた。しかし、爆発後の振動エネルギーが静まるには長い時間がかかり、センサーからコンピューターに伝えられる信号の精度が得られないという問題に直面したという。この解決策としてセンサーからのケーブルに振動防止のためにオイルジャケットを着せてみたところ、海底下にあるオイルポケットの映像が大変鮮明に観察できるようになったという。この経験をオッド氏は決して忘れなかった。また、86年には原子力発電所で働くようになり、そこのコンピューターで行なう重要な仕事の一つに放射燃料電池に関連する燃料束エネルギーの三次元カラー映像を作り出すことがあった。これらの燃料棒は人体への影響を抑えるためにホウ素が溶解された水に付けられている。これは同時に電子の活動を抑制するためであり、これらの経験がオッド氏の記憶に刻み込まれ後々のアイデアに関連していくのである。しかし、ここでの勤務は激烈を極め毎日12時間、週に一度の休みもなく6か月を働いたという。そして、やっと家族とともに長期の休暇を取りテキサス西部の鄙びた田舎町に休息を求めたのである。
 その辺境の地がどのようなところか、それを想像するにふさわしい表現として20世紀のこの時代になってもテレビや短波放送も受信できないほど、ということでいかに大自然の中に深く立ち入っていったかが想像できるのではないだろうか。熱心なオーディオファイルであるオッド氏は小さなオーディオシステムを携えていったのだが、そこで聴く音楽がいかに自然で生々しいことに気が付いたという。自宅で聴いていたときには荒く尖っている音だったのに、一体これはどうしたことだろう。その疑問を抱えたままで自宅に戻り同じシステムを聴いてみると、やはり覚えているとおりの荒く尖っている音だったという。そこで探求心旺盛なオッド氏は早速このシステムの分析に取りかかったという。まず、DCバッテリーで駆動するように電源を改造した。これでACからの影響から逃れられたのは確認されたのだが、まだまだテキサスの僻地で聴いたほどの音ではない。彼の疑問は解けないまま数日が経過して行く。しかし、ヒントは意外な時にひらめくもので、何と自宅のベッドで横になっている時に答えが浮かんできた。目には見えないものの自宅付近の環境ではコードレス電話や各種の無線やマイクロウェーブ、テレビ・ラジオはもとより無数の電磁干渉があるが、人里はなれたテキサスの僻地ではそれがなかったではないか。そして、早速オッド氏は電磁干渉という考えに沿って自分のオーディオシステムの最も無防備な唯一の部分を捜し当てたのである。高周波と電磁干渉に対してオーディオシステムの最大の弱点、それはケーブルであった。それ以後オッド氏は専門家たちに助言を得ながら対策を探し求め、市販のケーブルでは数々のパラメーターに対応の限界を感じ彼自身の設計によるケーブルの開発へと進んでいったのである。ピューリスト・オーディオ・デザイン、それは純粋にオーディオのことだけに集中する、英知に長けた音楽愛好家によって生み出され、音楽愛好家のために常に開発を続ける創造的技術集団である。


第2部へ" 第2部へ

 目次へ

  Heariing Line Up へ