第四十五話「美音倶楽部」


第三部「イルンゴの奇跡」



第一章『What is ILUNGO』

 1996年11月、東京武蔵野市に設立された社員たった一人の会社がある。そのた った一人とは、約20年間かのパイオニア株式会社に籍を置き、プロ用の音響映像シス テムの設計から業務用レーザーディスクの開発、そしてLSIの開発までと実に多方面 の技術畑を歩んでこられたという楠本恒隆氏である。そして、たった一人ということは 、代表者であり、設計者であり、製作者であり、そして営業も行なうということで、一 挙に総合職をこなさなければならない立場になってしまった。以前から独自のオーディ オに対する研究を重ねており、技術系の雑誌に発表されたこともしばしばあったので楠 本氏の名前を記憶されている方もあるのではないだろうか。

 98年3月のある日、私には日本で一番ノーチラスを販売してきた実績があるだけに 、週末にはノーチラスのオーナーが二人三人と遊びにこられオーディオ談義に花が咲く のであるが、その中のVIPのお客様がある雑誌を手に取り、「川又さん、これ知って ますか?」と見せられたのがイルンゴのモデル705であった。それまで私はまったく イルンゴの存在すら知らなかったので、すぐその場から電話をかけた。週末だから休み だろうと思っていたのだが、留守番電話のメッセージに従って携帯電話に連絡をとった 。すると、そこで車を運転中の楠本氏に電話がつながったのである。そもそも、私が楠 本氏を知るようになったきっかけは、こんないきさつからであった。話しをしてみると 、楠本氏は昨年から私のことを知っていたという。オーディオに並々ならぬ情熱を注が れている楠本氏は、当社の他支店をご利用頂いているとのことで、私がステージに立っ た昨年のマラソン試聴会に参加されていたというのだ。

「こちらの方からご挨拶にうかがおうと思っていた矢先に電話を頂いてかえって恐縮で す。東京に戻ってからご連絡を差し上げた上でうかがいます。」

と、丁寧な応対に楠本氏の人柄が表れ好印象の出会いであった。

 そして、三月二五日、音が出るものはまだ一台しかないというモデル705を携えて 楠本氏が来訪された。紳士的であり主義主張を明確に語られる楠本氏には、私もすぐに 好感をもち話しが弾んでいく。まず最初に「イルンゴって何のことなんでしょうか。」と尋ねる。

「イルンゴ( ILUNGO )とはイタリア語のアルファベットで言うJの文字の読み方なんで すよ。イタリア語にとっては本来Jは存在せず外来語なんです。従って、イタリア語の 辞書にもJの記述はわずか三分の一ページ程度しかありません。要するにイルンゴは世 界でも大変珍しい言葉なんです。私はイルンゴのJは、just とかjudge、そして japan などと多くの意味を持たせた文字として社名にしました。」

なるほど、凝っていながらシンプルな響きが楠本氏の思いを表していて思わずうなずい てしまった。しかし、私のフロアーに居並ぶ数々の海外製品を見て、

「でも、真の意味は電子回路やデザインも含めて、外国製品に負けないユニークな発想 を提示していきたいという考えもあるんです。」

「そうですか、大変結構な志だと思います。ところで、お生まれは何年なんですか。」

オーディオには何の関係もない質問なのだが、このフロアーを訪れる方は製作者の人柄 を尋ねる方も多いのである。そして、私も製作者のプロフィールを頭の中に入れておき 、その製品の音と一緒に説明することも大事なことだと考えている。

「1949年ですから、昭和24年ということになりますか。歳のことはあまりきかな いでくださいよ。」

と照れながら話す仕草にも誠実さが感じられる。どうやら、信頼できそうな人である。 「すべてを一人でやっているんだから大変ですね。」とねぎらうと意外な答えが返ってくる。

「そうです、大変ですね。でも、私は会社を大きくしようとは思っていないんですよ。 お陰様で子供たちも一人前になりましたし、あとは自分の好きなことをやりながら、家 内と二人で何とか食べていければいいと思っているんですよ。」

と、長年パイオニアで技術畑の企業戦士として戦ってこられた半生を思い返しておられ るのか、あっけらかんとして商売っけがない。しかし、その反面では「そのかわり、オ ーディオに関しては誰がなんと言おうと妥協しませんよ。」という、小さいながらも一 国一城の主という立場を暗黙のうちに訴える自信がみなぎっておられる。



第二章『physical explain』

 さて、このイルンゴのモデル705だが、このデザインだけは文章で語るには難しい 造形のユニークさがあり、写真として何とか紙面に載るように試みた。「写真で見るよ りも大きいですね。」これが私の第一印象である。幅39センチ、高さ49センチ、奥 行き27センチ、重量は22kg、オブジェを思わせるアルミの塊がどっしりとした安定 感を見せて床に置かれた。「申し訳ないんですが、この大きさだとここではラックの上 に置くわけにはいかないんですが。」と、スピーカーへの視線を妨げてしまうほど大き いモデル705を見て私が言うと。

「ええ、構いませんよ。実は取り扱い説明書でも述べているんですが、床置きを推奨し ているんです。第一の理由は、置き場所の環境や材質が微妙に音質に影響してしまうこ と、そして万一落下した場合に事故が起こるといけないという配慮からです。」

さすがに大手企業ご出身ということもあってPL法への配慮もぬかりはない。「ずいぶ ん厚いフロントパネルですね。」と尋ねると、

「厚みは25ミリです。もともと13kgあったものから切削処理をして仕上げています 。加工後の重量としては11.5kg程度になっています。」

「本体下部で一九センチほど後ろに伸びている三角形のベース、これもフロントパネル と同じ厚みのようですが、これで全体を支えているわけですね。特に脚部と言えるよう な突起物はありませんが、置く場所によって影響を受けるというのは面接地しているん ですか。」

「いいえ、実は三点接地なんです。二五ミリもの厚みをもつフロントパネルを後方に1 5度ほど、水平面から考えれば75度という角度で傾けているわけですが、そうすると フロントパネル下辺のうち後ろの稜線が床と接することになりますね。その一辺の両端 に1センチずつを残した中央部分を数ミリ削り取ってあるんです。従って、フロントパ ネルの両端と三角ベースの頂点の三点接地ということになります。」

なるほど、シンプルな外観に似合わず細かい気配りが感じられる。

「モデル705のデザインで大変象徴的なポイントが、その15度の傾斜にあると感じ ているんですが、これは本質的にはデザイン的な要素を考慮してのことですか。」

「この中には銅のプリント厚が100ミクロンという自重2.3kgもあるLPジャケッ トサイズの一枚基板が納められていますが、その基板を水平に収納しようとすると、自 らの重さでしなったりストレスを受けてしまうんです。そこで、垂直に安定させるため にハウジングとしてはこのような造形になったわけです。そして、15度傾斜させてい るのは垂直方向の振動からもストレスを受けないようにしたかったのです。」

「そうですか、ずいぶんと細かな配慮ですね。しかし、本体に対してデリケートな振動 とストレスへの対処を施している割には、リアパネルにアルミのパンチングメタルとい う叩けば共振する素材を使っていますね。これは、先程の説明とは相反する素材選択と 言えませんか。」

意地悪な質問をしても楠本氏の表情はなんら変わらず、うなずかれてから答えが返ってきた。

「おっしゃることはよくわかります。このパンチングメタルは厚みが〇・五ミリあり、 R=280mmというカーブでアーチ曲線を描かせてストレスを与えています。川又さん もご存じのように素材は何であっても薄板そのままで叩けば当然共振します。でも、こ のようにカーブをつけてストレスを加えておけば、打音はほとんど瞬時に減衰してしま います。小学生が使うセルロイドの下敷きは、手に持って叩けばビョーンと音がします が、湾曲させて叩くとビンッという響きに変わってしまいますね。それと同じに影響は 最小限になっています。そして、総重量としても22kgの本体にしっかりと固定されて おり、本体との質量比からみても十分なメカニカルアースが取られているのです・・・ 。」

そこで私が割り込んで、「なるほど、素材の採用に問題はないということはわかりまし た。しかし、なぜそれを使わなくてはならなかったのですか。」

「実は私が研究を繰り返してきた中で、基板を何らかの容器に閉じ込めてしまうと、電 子的にはまったく同じ動作をしているはずなのに音が変わってしまうという経験をして いるんです。こと再生音のことですから人それぞれに選択肢があると思うのですが、音 楽の伸びやかさとエネルギー感、そしてダイナミックな躍動感を感じるためには閉ざさ れた空間に基板を閉じ込めてはいけないという結論に達したのです。従って、リアパネ ルには気密性のないパンチングメタルを使いたかったのです。」

 また、このモデル705にはデジタル入力も1系統、アナログ出力も1系統とシンプ ルの極みであり、内部の配線も極力排して高純度の銅線による手配線と無鉛ハンダで重 ねハンダを行なうという職人技で音質を決定している。つまり、楠本氏お一人にしかイ ルンゴの音は作れないということだ。各種のパーツにも特注品と改造品がふんだんに採 用されており、入力端子と基板、基板と出力端子を結ぶひときわ太いケーブルに目が止 まる。「このケーブルは国産ですか。」と尋ねてみると。「これには参っているんです よ。」と苦笑いをされる。

「ヨーロッパのあるメーカーに依頼した特注のケーブルなんですが、猛烈に生産コスト を押し上げているんです。」

私の悪い癖ですぐに値段をききたくなる。

「大体1メートルで2万円程度です。でも、聴いてみてこれしかないとわかってしまう と他のものはもう使えないんですよ。」 と事もなげに答える。イイですねぇ。自分に嘘がつけなくて良いものがあればコストが かかろうと妥協しない。これこそハイエンドですよ。ウーンッ、「私が研究した結果・ ・・。」というのは、私にとって最も強力な殺し文句となってしまった。海外のハイエ ンド・メーカーのエンジニアたちが決めの文句として使うのがこれである。だからこそ 、彼らの個性と主体性が製品に表れ、私にとっても大きな魅力を発揮してきた。少なく とも、企業人として良識ある日本のオーディオメーカーの皆さんは、ここまではっきり と主観的な音質判断を下されてモノ作りを進めるということはないであろう。やはり、 周囲の人間関係と会社という看板を意識しての発言と仕事への取組みになってしまうの ではないだろうか。ところがどうだろう、楠本氏のこの切れ味のいい語り口は。大企業 の一社員としてはかなわなかった自分なりの音の世界をはっきりと捕らえ、そして自信 たっぷりに語られる口調は実に壮快そのものである。



第三章『mental electronics』

 さて、外観から受けた印象から始まった質問だが、徐々に内面へと探りを入れていく ことにする。

「フロントパネルに突起した直径一五センチ高さ六・五センチの円筒形には、もしかしたら電源トランスが入っているんですか。」

「その通りです。スーパーリング・トロイダルトランスがアナログ用とデジタル用とに分かれて格納されています。」

「アンプでは電源トランスを体裁のよいシールドケースに入れて、共振しないようにエ ポキシなどを充填して固めているものが多いのですが、この円筒形ハウジングの中にも 何かを充填しているんですか。」

「いいえ、先程と同じ音質的な理由から充填物は何も入れていません。二五ミリのフロ ントパネルの内側から貫通するボルトで強固に固定してあります。しかも、トランスの 間近に磁性体を置きたくなかったので、この固定用のボルトも通常は鉄製なんですが、 わざわざ真鍮で六ミリのボルトを特注で作りました。」

いやはや、細かい気配りには頭が下がります。ぶ厚いフロントパネルが基板と電源トラ ンスを隔てているわけだ。しかし、D/Aコンバーターにしてはずいぶん大きなトラン スだな。

「そのスーパーリング・トロイダルトランスというのは、簡単にいうと通常のトロイダ ル(コアと巻線がドーナツ型をしている)トランスとどこが違うんですか。」

「通常のトロイダルトランスはコアの断面が四角形をしているので、コイルを巻くとき にコーナーの付近でテンションが不均一になり、電磁誘導効率が低下したりレギュレー ションが悪化したりということがあります。しかし、スーパーリング・トロイダルトラ ンスは断面が円形なので巻線の効率もよく、そのような弊害を発生しないのです。ただ し、部品としては大変高価になり、国産のアンプメーカーでも最上位機種にしか採用し ていません。」

そう聞いて、私の頭の中にはアァッ、そういえばと某社のアンプの中身を思い出してしまった。

「いったい、どの程度の容量を持っているんですか。」

「単純にいえば120VAのトランスが二個ということです。ですから、100W以上 の出力を持つパワーアンプを作れる程度ということになります。」

まいったな、前衛的なデザインに惑わされていたのか、こんな強力な電源を搭載してい るなんて想像もしていなかった。

「あの・・・、私が知っている範囲ではD/Aコンバーターの消費電力は大体が数ワッ ト程度、大きくても30ワット程度のものが大半でしたよ。それに、電源の容量が小さ くてもNFB(負帰還のこと)をかけて安定化させればレギュレーションは維持できる はずじゃないんですか。」

「その通りです。デジタル用の電源はおっしゃるように安定化させていますが、アナロ グ用の電源には一切のNFBをかけていません。音楽の超低域成分を残らず再生するた めには本当に瞬間的な電流が要求され、NFBをかけると応答時間が遅れて音質に影響 すると考えているからです。」

ウーンッ、たいしたこだわりようだ。でも私はまだ納得しない。

「モデル705の大きな特徴としてデジタルフィルターを使わずに、アナログフィルタ ーを採用したということでするね。DACチップのあとにはI(電流)/V(電圧)変 換を行なってからアナログフィルターを通すわけで、これらすべてをデイスクリートで 組まれたのですか。」

「いいえ、結果的にはICを使ってI/V変換とアナログフィルターを1ステージとし て最短のシグナルパスを形成するようにしています。」

「というと、一種のオペアンプとしてアナログ部分を設計された。」

「はい、そうです。ここは大変に音質に影響を持つ重要な部分です。ここをデイスクリ ートで組むかオペアンプを採用するかは設計者の技量を問われるポイントです。往々に して高級品にはディスクリートという発想が強かったと思いますが、現代のオペアンプ は数値性能で劣るということはなく、かえってディスクリートでは実現困難な性能要素 さえあるんです。何と言っても私が注目したのはICのチップがわずかに二、三ミリ角 の大きさであるということ。そして、ディスクリートでは難問となる高周波帯域までレ ンジを確保するI/V変換部には、取り扱う信号の性格上、超広帯域な伝送特性が最短 のシグナルパスで構成することに私は大きな意義があると考えています。」そこで私は 更に質問を続ける。「でも、オペアンプであれば5Vから18V程度で動作してしまう はずなのに、こんな強力な電源を使わなくても・・・。」

「川又さん、いま非常にいいことを言ってくれましたよ。まず、優先順位としてアナロ グ回路の電源にNFBを使った安定化回路を入れたくなかった。そして、確かにオペア ンプの駆動にそれほど大きな電圧は必要ありません。モデル705の場合は12Vで動 作電圧を設定しています。しかし、この電圧であっても音楽のダイナミックな表現には 極めて瞬間的な大電流が要求され、その応答性を維持するために、これだけの規模の電 源を搭載することに私は価値があると判断したんです。」

このモデル705には電源スイッチもない。通常はインレット式にACケーブルをコン セントと製品の中間に使うのだが、一ミリの単線をプラス・マイナスと各々六本よって 作られた二メートルの固い電源ケーブルが直に本体に引き込まれ電源に直結されている のだ。まさに質実剛健。なるほど。これも、研究の結果とヒアリングでの判断ですか、 と尋ねると我が意を得たりと楠本氏はおおきくうなずいて、「そうなんです。そこが最 も私が追求している点なんです。」と、楠本氏は笑みを見せる。

 さて、こだわりの電源部からD/Aコンバーターの心臓部と言えるDACチップに話 しを移していく。確か、今は生産を打ち切られたという、フィリップス製のTDA15 41Aをモデル705は二個搭載している。

「このTDA1541Aは他社の製品にも使われていますが、これ一つで左右チャンネ ルを再生することが出来るんじゃないですか。」

「確かにその通りです。しかし、どうしてもこのチップを二個使いたかったのは、一個 では私の求める超低域まで奥行き感をもった音は出なかったからなんです。」

そう、この「私の求める音」というのが大切なんです。私はすぐに認めてしまいました 。しかし、通常の使い方ならチップをそのまま組み込むことで手間はないが、一台に二 個使うということは左右チャンネルのペアマッチを考慮しなければならないはず。・・ ・と言うと、すでに私が何を言いたいのかわかったようで、

「当然、歪み率と出力レベルに関しては厳密な測定の上で厳選したペアマッチをとっています。」

そこで、私は次の質問を用意していた。

「チップを厳選するということは個体差があるということで、選別していくうちにパー ツストックが心もとなくなってくるということはないんですか。失礼ながら、お一人の 会社ではそれほどの買い付けが・・・。」

この失礼きわまりない質問に楠本氏はドッと笑いながら答えられた。

「ごもっともです。実はチップの買い付けのときにフィリップスと交渉したのですが、 あちらのロット数量の大きさと強気のセールス姿勢には私も驚いてしまったんですよ。 これから数年先まで見て、アフターサービスの分まで含めても売るほどたくさんあるん ですよ。」 よせばいいのに、好奇心に駆られて私の質問はここで終わらなかった。

「あの・・・、そうすると100の単位ですか。」 「いやいや、その上の桁ですよ。しかし、このチップは安定性がすばらしいので完璧に 使えないものはまずありません。要は一台の製品を組むときの一ペア、二個ひと組のペ アリングを慎重にしているだけで、それ以上の疑問を持たなくても大丈夫なんですよ。」

 そもそもD/Aコンバーターというコンポーネントは、このDACチップの前後にど のような回路を付け足すかが製品のセールスポイントになってきた。DACチップの前 段階では、16ビットを20ビットデータに変換したり、サンプリング周波数をかけ算 してオーバーサンプリングしたり、入力のインターフェースにTBCを使ったり、特殊 な演算をDSPで処理したり、枚挙にいとまがないハイテクが駆使されてきたのである 。そして、DACの後には、位相回転が発生しないというメリットを優先してデジタル フィルターを使用する。そして、そのフィルタリングのロールオフカーブに関しても、 急峻なカットオフとスローロールオフの選択によっても各社のアイデンティティーがあ ったわけだ。

 まず、このフィルターのアナログ化に関して質問した。

「アナログフィルター、簡単に言えばコンデンサーを使った一次のパッシブフィルター では、44キロHzの高域輻射(折り返し)ノイズは完全には取り切れないと思いますが 、問題はないんですか。」

「はい、私はヒアリングの上で優先順位を決定してきましたので実用上の問題はないと 考えています。しかし、商品設計に当たっては再生系全体に折り返しノイズの影響がで ないように考慮して設計数値を決定しているのは言うまでもありません。フィルターは 基本的には二次のもので、フィルターのQ(遮断特性の減衰量の意)を高めるために独 自の工夫をしており、44.1キロHzでマイナス20デシベルの減衰量です。定数決定 はコンピューターでシミュレート出来るので、昔に比べれば大変楽になりました。と同 時に大変時間短縮が出来るようになり、言い替えればヒアリングをはじめとする音質追 究や他の分野の研究に多くの時間がかけられるようになりました。これらを背景として アナログフィルターにこだわったのは、デジタルフィルターを使うと私が目指している 音楽の再現性が得られないということだったんです。そして、測定器レベルの話しでは なく、ヒアリングの上でアナログフィルターの重要性が折り返しノイズを十分に抑制し ていることも確認してきました。」

「でも、パッシブ方式アナログフィルターでは、理論的に言っても可聴帯域内部で位相 回転は起こっていますよね。」

「そうですね、正直に言って二次とはいえアナログフィルターでは起こります。モデル 705でも一15キロHzから20キロHzでは大変ゆるやかな位相回転は存在するでしょ う。しかし、その位相回転が断続的で不連続であったり、一定の周期で極端な変化をし なければ人間には検知できません。そして、何よりも、再生するスピーカー自身の高域 特性に完全なリニアフェイズは存在しませんし、聴く人の耳を数センチ動かすだけで2 ウェイ以上のスピーカーは位相のずれを発生させます。これらの認識不可能なパラメー ターを紙と計算の上で追求していくよりも、私は実際のヒアリングで得られた経験と判 断に優先順位を与えたのです。」

いいですねぇ、この辺のコメントは海外メーカーの設計者が自信を持って私に話す価値 判断とまったく同じだ。どこにこだわり、何を追究すべきか、もっとも大切なポイント を技術的背景と音楽性を理解した上で優先順位の付け方に製作者の感性が表れているの である。

 そして、現状では他社に類をみない試みがモデル705では行われている。前述とは 反対側のDACチップの前段階での話しである。ここで数行前に述べていることが理解 の鍵となる。CDが世に出現したころからしばらくの間、メーカー各社はアナログフィ ルターの宿命とも言える高域輻射(折り返し)ノイズの弊害から逃れるためにフィルタ ーの遮断特性を急激にすることを考えた。すると、急激な減衰カーブを得るためのフィ ルターを作ると位相回転が大きくなるという壁につき当たる。そこで、サンプリング周 波数を数倍に高めることによって高域輻射(折り返し)ノイズが発生する帯域も格上げ できるので、位相回転の少ない緩慢なゆるい遮断特性をもつフィルターでもよしとされ てきたのである。

 しかし、この時代にはジッターという言葉はなかった。ジッター、つまり時間軸のず れとゆらぎと考えられる現象である。時間軸で音を量子化して記録する、いわゆるA/ D変換。逆に再生系の中でD/A変換するときにも時間軸の基準が必要となる。トラン スポートからD/Aコンバーターへの伝送過程において、またディスクから信号を読み だすときの時間軸とDACを動作させるときの時間軸の誤差、そしてケーブルや内部基 板上と、いたるところにジッター発生の要素が存在しているのである。医学は各種の伝 染病を駆逐して人類の生存に大きな貢献をしてきたように、各社の技術者は前述のフィ ルターに関する問題を複数の選択肢として結論付け、フィルターの存在を肯定し共存す る時代になってきたのである。そのかわり、このフィルターの議論に隠れ潜んでいた病 源菌のように、ジッターという考え方がデジタルオーディオが内包している諸悪の根源 としてクローズアップされてきたのである。そして、今や開発が進んだデジタルオーデ ィオの分野では、再生音に影響を与える要因として、このジッターをいかに除去し抑制 するかが論点となってきたのである。

 そして、ここでオーバーサンプリングという手法も、ジッター症候群の感染を受けて いるのではないかという基本原理をイルンゴオーディオが提示してきたのである。何と 、イルンゴのモデル705はノンオーバーサンプリングなのである。楠本氏は私に簡単 に説明すると、と前置きして話しはじめた。私のレベルでわかるという前提であるが、 ここでは多少の注釈を交えて述べてみることにする。

「現在のCDは16ビットで44.1キロHzサンプリングです。音に限らずアナログ量 をデジタルで扱うときにはLSB(最小ビットの意・ Least Significant Bit の略) の半分の誤差を原理的に含んでいます。従って、どんな高級な測定用A/Dコンバーター (またはチップ)にも変換誤差として1/2LSBと表示されています。」

二進法のデジタルでは1と0で表されるとすれば、小数点以下の数量は標示不能であり 、0.4とか0.6という数量の概念はなくなる。

「一般的なCDプレーヤーはフルビット(最大変調時)で2Vの電圧を出力しますが、 その中では既に約15マイクロボルトの誤差が含まれているということになります。」

一般的なCDというと16ビットなので、電圧の振幅としては六五、五三六(2の16 乗)段階ということになり、2Vをこれで割ってから1/2にすると約15マイクロボ ルトという電圧になるということだ。

「前述の原理的に含まれた誤差の範囲を、オーディオシステムで許容されるジッターと 仮定してみましょう。前提として〈時間×振幅〉が16ビット(65,536)段階に 伝送されることを16ビット精度とします。そして、誤差は1/2LSBとすると16 ビット1倍サンプリングでは1÷44.1キロHz÷2の16乗÷2=173ps(ピコ セコンド)となります。」さて、このps(ピコセコンド)とはどういうことか。セコ ンドとは時間の表現なので周期と考えられ、この周期と周波数の関係は次のようになる 。1M(メガ)Hz〔十の六乗〕が1マイクロセコンド、1000MHzが1n(ナノ)セ コンド、そして百万MHz〔十の一二乗〕が1p(ピコ)セコンドということになる。ま いったなぁ、手元の電卓では計算できない。この途中で一〇万倍の乗数をかけると確か に172.999・・・と数字が見えてきた。

「そして、同じ計算式で20ビット8倍オーバーサンプリングの場合を計算すると1. 35psになります。」

ちょっと待ってくださいよ。計算の苦手な私はメモを取りながら考える。まず、44. 1キロHzの8倍は352・8キロHzと、20ビットということは1,048,576段 階として、やはり電卓では桁が足りないので今度は100万倍の乗数にして、ウーンッ と悩むと135という数字が表れてきた。なるほど。

「先に計算した16ビットでの誤差173psは、20ビット8倍オーバーサンプリン グの128倍と言うことになりますね。と言うことは。」

「と言うことは、16ビットのノンオーバーサンプリングであれば、ジッター成分が1 73ps以上の時間軸変動を起こさなければ原理上チップの動作に影響を与えない、言 い替えればジッターの許容範囲も128倍ということですか。」

と私は半分わかったようなつもりで一気に言い切ってしまった。なるほど、結論として イルンゴはジッターというウィルスに強い抗体を持っているというわけか。ここで楠本 氏は私を見て表情を変えながら語りはじめた。

「しかし、私はジッターが音を支配しているとはまったく考えていません。デジタル信 号を受信する立場にあるD/Aコンバーターは、DAC側でPLL(フェーズ・ロック ド・ループ=位相比較制御回路の意)をPLLで作り出すクロック自体はこれほど安定 ではないんです。PLLを多重化したりしてジッター対策のために回路を複雑化する。 そのため部品点数が増えてしまった分だけ安い部品を使わなければならず音質に妥協す る。こんな見せかけの数値向上策は避けるべきであり、回路を単純にすることで原価コ ストの配分をもっと音質に対して貢献度の高い分野に振り向けることが出来ます。根本 的な予防をすることに関心を持たずに、病気の兆候や症状があれば薬の処方量を増やす だけという、こんな手法が音質向上に貢献するはずはないと確信しているんです。」

「その通りですね。原因があるからこそ対策が必要になる。どれだけコストをかけて贅 沢な対策をしたかということを競いあうのではなく、問題となる原因を作らないという 研究と開発が本来の最優先事項だと思います。」

原理を知ってこそ物事の優先順位を見極めできる。理論を理解しているからこそ無意味 な数字の拡大に惑わされない。設計者として何が大切かを楠本氏はちゃんとわかってお られるのだ。マイナーメーカーというと、弱小という印象を思い浮かべる方が多いので はないだろうか。しかし、少数精鋭であるからこそ主義主張を明確に打ち出すアイデン ティティーが鮮明になるものである。いよいよ日本にも本格的な思想に裏打ちされたハ イエンド・メーカーの誕生が実感されたのである。


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