第三十八話「ナイスガイ・K」
第一章『魅惑のバストの手応え』 1996年7月31日の夕刻、いよいよグランドユートピアがやってきた。輸入元の 株式会社ノアの皆さんが車2台4名の陣容で、酷暑の中大汗をかきながらの搬入作業で ある。既に運び込んであったウィルソンのX1グランドスラムを一旦移動して場所を空 け、キャスターを装備しているグランドユートピアを直立のまま、17cmほど一段高 くなっているスピーカーステージに乗せる。私のフロアーに二つの「グランド」がそそ り立つ情景は壮観であり、その存在だけでも迫力を感じさせる。両者の最終位置を決定 する前に、お馴染みの曲を数曲かけて間隔を検討しようとしたところ、「アレッ、ちょ っと待ってよ。」と私のストップがかかる。二週間前にステレオサウンド社の試聴室で 聴いた印象と低域が違い過ぎるのだ。悩んでも作業が進まないので、ヴォーカルの音像 が空間的な分離を見せるところで納得して二つの「グランド」のポジションを決定した 。配置が落ち着いたところで疑問の低域を検討する。「アッ、これだ。」と私がひらめ いたのはグランドユートピアのキャスターである。エンクロージャーの上部を手で押す と、重量186kgのグランドユートピアがユサユサと揺れてしまうのである。私は、 グランドユートピアを傾けて下からキャスターを見た事がある。直径10cmはあろう かという大変堅牢で耐荷重にゆとりのあるキャスターなのだが、大型であるが故にゴム のタイヤ部分の厚みは1cm程度はあったようだ。コンクリートベースにレンガタイル 仕上げの硬いスピーカーステージに乗せられたグランドユートピアは、それ自身の重さ も手伝ってゴムタイヤが圧縮されて揺れてしまうのである。これでは低域どころか、中 域以上までも影響が出ようというものだ。このキャスターを取り囲むようにグランドユ ートピアはスカートをはいているのだが、手でさぐって見るとサイドパネルの延長で厚 みが55mmもあることがわかった。「ウンッ、これだったらいけるぞ。」と、私はア ヴァロンが製品として販売している無垢のステンレス製スパイク「アペックスカプラー 」に、フェルトに接着剤を含浸させて圧縮したスペーサーを貼り付け、それをグランド ユートピアのスカート部分の各コーナーに取付けキャスターを浮かせたのである。「や っぱり、これだったのか。」効果覿面である。先程まで聴いていた低域は床にまとわり つく感じで、締まりのない肥満体の体型を思わせるものであった。しかし、スパイクに よる改善後は均整の取れたプロポーションに変化し、見事にヒップアップしたパリジェ ンヌの姿態をイメージさせる本来の低域再生能力が蘇ってきたのである。しかし、同じ スピーカーであっても環境の違いによって起こる音質的な変化は、わかっていながらも 大きな相違を感じさせる。今になって思えば、グランドユートピアをステレオサウンド の試聴室で 聴き、そして自分のフロアーで聴くという二か所での体験には大変に 意味 深いものがあった。前回の随筆で解説したグランドユートピアに関して、書き改めなけ ればいけないところがいくつか発見出来たのである。まず、イーグルス「ホテル・カル フォルニア」のイントロで、7回目のキックドラムの音程に変化があるのだが、ウィル ソンのX1ではあまりその変化を聴き取ることが出来なかったという表現である。これ に関しては、当フロアーのルームアコースティクのいたずらであることが判明した。も ちろんウィルソンのX1に関しての前述の表現は、はっきりと誤認であったことを私も 学習した上で認めるものである。私のフロアーはスピーカーステージから約3mの距離 に前列の試聴用ソファーが配置され、同じく約5mの距離に後列のソファーを置いてい る。この前列のソファーの位置ではキックドラムの音程変化は両者共に明確に表現され 、特にグランドユートピアだけの能力ではなくX1も同等な再現性があることを強調し て訂正するものである。そして、これが私の判断を誤らせたところなのだが、5mの距 離では両者共にキックドラムの再現性に曇りを見せてしまうのである。しかし自分のフ ロアーの音響特性がこんな形で暴露されようとは思っても見なかった。これまで多種多 様なハイエンドスピーカーをこの部屋で聴いてきたが、このような低域の伝送特性をは っきりと認識さられるスピーカーは初めてである。 つまり、5mの距離を置いて聴いた場合には、当然3mの距離よりも間接音を多く含 むようになるというのは常識的に理解出来るであろう。しかし、これまで体験したスピ ーカーでは、その違いをどれほど顕著に聴かせてくれたのだろうかという疑問である。 低域に重量感と量感を満喫出来るスピーカーは数多くあったのだが、本当に新鮮な低域 を再現するスピーカーというのは稀である。その新鮮な低域がこのフロアーの空間を進 行していくうちに、間接音との融合で本来のテンション、スピード感、といった輪郭を 表現すべきメリハリのあるニュアンスを鈍らせてしまうのである。二つの「グランド」 は確かに巨大ではあるが、相当デッドなチューニングの部屋は別として、よりニアフィ ールドに接近して活きのいい低域を体全体で受け止めて見たいという誘惑に駆られる一 面がある。さて、今までイーグルス「ホテル・カルフォルニア」のイントロで、7回目 以降のキックドラムの音程に変化があると表現をしていたのだが、その筋の専門家の方 から更に正確な情報を頂くことが出来た。この「ズゥィーン」という音はキックドラム の音程が変化しているのではなく、別の音源を付け足しているらしいのだ。私も以前か ら気にはなっており、「ズゥィーン」という音の後半部分で音程の違う低音が本来のキ ックよりも少しセンターよりに定位してくることから正体が分かりかねていたのだ。そ の方お話によると、インドやアフリカ音楽といったエスニックな演奏で使用される「タ ブラ」というリズム楽器が大本の音源らしいのである。しかも、その「タブラ」の音を そのまま使用しているのではなく、「タブラ」を音源としてサンプリングしシンセサイ ザーで加工処理したものであるということだ。また、ジェニファー・ウォーンズの「ハ ンター」の八曲目に収録されている「ウェイ・ダウン・ディープ」もテストによく使用 するのだが、この曲の冒頭から一貫して使われている「ゴォーン」という低音楽器の正 体も「タブラ」の加工音であるということだ。再生する側だけでは判断が尽きかねるこ とに対して、録音側の情報を 頂けたということは私にとっても大変有意義であり、こ の場を借りて お礼を申し上げたい。 第二章『爆弾発言』 時系列は多少前後するが、1996年7月13日新製品のプロモーションのために来 日したマドリガル社々長マーク・グレイジャー氏が私を訪ねてくれた。にこやかに挨拶 を交わした。ほぼ一年ぶりの再会である。アメリカ人独特のTの発音を明確にしないし ゃべりかたなので、私の名前を呼ぶときには「ミスター・カワ・マ・ラ」と聞こえてし まう。でも、ちゃんと私の名前を覚えていてくださり、昨年ここで聴いて感動していた テクニクスのSB−M10000の事を再度褒めていただいた。グレイジャー氏との出 会いと現在に至る略歴については、本随筆の第二五話で述べているので読み返していた だければ幸いである。さて、新製品の話しを始めようかと思ったその時、グレイジャー 氏はあたかも自信たっぷりのプレゼントを手渡すときのような得意げな表情を作って何 やら話し始めたのである。一通り話し終わってから、同行してきた輸入元ハーマンイン ターナショナルの社員であり通訳の担当者が明らかに動揺しているのが分かった。「ミ スター・カワマタ、これは全世界中のマークレビンソンを取り扱うディーラーの中でも 、今あなたに最初にお話するホットニュースです。我々はNO・33Lのバリエーショ ンモデルを企画しており、既にアウトラインの設計を終了しています。モデルナンバー はNO・33Hです。このHとはハーフの意味で、サイズ、価格、パワーを本当にハー フサイズにしたものです。つまり8Ωで150Wがギャランティーされ、後はインピー ダンス低下に伴って理論値通りのパワーが得られます。」私は驚きと共に、昨年マーク ・グレイジャー氏に私が最初に話した内容が瞬間的に思い出された。「価格と能力はと もかくとして、大きさで売りにくい面がある。」と率直な意見を述べた事を覚えていた らしい。これを聞いたハーマンインターナショナルの担当者は一瞬ムッとした。私の方 を向いて日本語で、「グレイジャーとは社内で散々ミーティングをしてきたのに、こん な大切なこと一言も言ってなかったんですよ。」そんな担当者の表情は目に入らぬかの ようにグレイジャー氏は続ける。「NO・26タイプのプリアンプは、ワールドワイド で累計7,500台の販売実績を誇っています。同様にパワーアンプのNO・20シリ ーズも6,000台をセールスした実績があります。これらの記録を更新するためには NO・33のバリエーションモデルがどうしても必要であると考えたのです。いかがで しょう、ミスター・カワマタ、NO・33Hは日本で売れるでしょうか。」と、グレイ ジャー氏は微笑みながら私の顔を見て問いかけてくる。昨年の私の発言が今になってプ レッシャーとなって降りかかってくるとは思いもよらず、内心では「まいったなァ。」 と思いつつも言葉が出る。「それはいいですね。売れますよ。」意地から出た言葉では あるが、正攻法でストレートな彼らの企画には素直な気持ちで賛意を表明した。そして 、「いつごろの商品化を予定しているんですか。」と質問する。「おそらく、プロトモ デルは今秋には完成出来ると思います。従って、世界的な発表は来春のウィンターCE Sで行われる事になるでしょう。」今年も9月に九段で開催される「輸入オーディオシ ョー」にこのプロトモデルが間に合うかどうか、早速ハーマンインターナショナルの担 当者は苦悩の表情を見せる。こんな爆弾発言をされて、きっと会社に帰ってからは喧々 がくがくの議論が展開されることだろうと思わず苦笑がもれてしまった。また、同時に 私が計画している試聴会にもNO・33Hの飛び入り参加を画策していることも見抜か れていたようである。しかし、これからパワーアンプを計画しようとするオーディオフ ァイルには大きな牽制球となることであろう。さしずめ価格もハーフということであれ ば240万円だ。ゴールドムンドのミメーシス8・4、ジェフローランドのモデル8T 、チェロのアンコール150モノ、FMアコースティックのFM411、ジャディスの JA80、スフィンツのプロジェクト26など、パワーアンプで200万円クラスの価 格帯で強力なライバルが出現する事になる。この随筆が発端となりユーザーと業界に、 これから一体どのような波紋が広がっていくのかが楽しみである。 第三章『アップグレード』 今回の新製品は3モデルあるが、まず最初に気になったのはリファレンスCDトラン スポートであるNO・31・5Lである。前作のNO・31Lは私も店頭で愛用してき た製品だけに、そのアップグレードバージョンを久しく待ち望んでいたのである。「外 観はほとんど変わらないが、主な変更点は。」と尋ねると。「従来はフィリップスのC DM−4メカを搭載していたが、今回のポイント5はCD−ROM用リニアトラッキン グ方式のCDM−12インダストリアルを採用しました。」なるほど、と思いながら次 の質問を。「このCDM−12はタイプ1、タイプ2、CDM−12プロなどと私が知 っている範囲でも数種類のバージョンがあるが、インダストリアルタイプを採用した理 由とその特徴は。」販売店の人間のくせに細かいことをきく奴だ、と思ったかどうかは 知らないがグレイジャー氏は同行してきたジェリー・ハナ氏と目を合わせてから答えた 。「インダストリアルタイプとは違う他のCDM−12は、ピックアップメカとアクチ ュエーター以外のアッセンブリーも付属させている。我々が必要としているのはダイキ ャスト・フレームに取り付けられた最小限のピックアップメカだけで、後のサーボ系や インターフェースなどは自社で作ってしまうので必要ないのです。」なるほど、グレイ ジャー氏の回答をかたわらで聞いているジェリー・ハナ氏の肩書はセールスマネージャ ーということなのだが、テクニカルな方面もかなり明るいようだ。もともとグレイジャ ー氏が大学で専攻したのは音響心理学であり電子工学ではない。グレイジャー氏も含め てマドリガル社の主要スタッフは、技術的な知識レベルを個々人で高める努力を怠って いないようである。マドリガル社のだれに聞いても、相当なレベルでの技術的な回答を 返してくるらしい。さすがであるが、私も負けたくない。「前作では鉛板をアルミでサ ンドイッチした重量5・4kgのサブシャーシーにピックアップメカを搭載してダブル フローティング構造を採用していた。今回のポイント5も構造的にはいっしょか。」こ の答えは簡単明瞭。「YES!」それでは、次の質問だ。「以前から気になっていたの だが、NO・31Lには付属品でスパイクが付いていて、標準装備の丸いアルミの足を これに交換すると随分と音が変わる。ヴォイシングの際にはスパイクで聴いているのか 。」すると、「NO!でも本体を大理石の上に乗せてからヴォイシングしている。」ち ょうど昨年の今頃発表したNO・36LとNO・37Lには新しいデジタルインターフ ェースとしてFIFO(ファーストイン・ファーストアウト)と呼ばれる一種のメモリ ーバッファーを搭載してきた。「デジタル回路では何か新しい試みをしているのか。」 と尋ねる。「クローズドループ・ジッター・リダクション(CLJR)と呼ぶ新方式を 採用した。これはファイフォ(FIFOのことを彼らはこう発音している)を開発した ことによって生まれた新技術で、ピックアップで読み取られた信号を出力端子に送り出 す過程のすべてに共通のクロックを与える、という閉回路的なジッター抑制方式なので クローズドループという表現にしました。」ここで、また私の頭の中に疑問点が湧いて くる。「ちょっと待って下さい。FIFOという回路は一種のメモリーであるとすれば 、FIFOステージの入力と出力では時間軸は一致しないはずだ。とすれば、全体に共 通のクロックを持たせて制御しようとするのはおかしいのではないですか。」「あなた は販売店の人間なのに、なぜそんなに突っ込んだ質問をするのか。」と内心では思った にちがいないグレイジャー氏は、またしても隣のジェリー・ハナ氏と話してから笑顔を 私に向けてくる。「その通りです。ピックアップから出力された信号は最初にファイフ ォに入力されます。その後のファイフォ出力から各種の出力端子までを クローズドル ープとして共通クロックを持たせたのです。私の説明が不十分であったことをお詫びし ます。」いやはや、そんなつもりではなかったのでかえって恐縮してしまった。このク ロック精度を高める一つの手段として、ポイント5では数センチ角の小さな基板にクロ ック素子を取付け、更に特殊なダンパーを介してボディーの内側にフローティングして 取付けするという工夫をしている。合わせて、そのクロック基板に対しての小さな専用 電源も同様な方法ですぐ隣に取り付けているという。この後付け的な手法もバージョン アップへの配慮に他ならない。 さて、新製品を操作して最初に感じた印象はもっと単純なものであった。NO・31 Lは厚み1cmのアルミのドアがジーという音と共に開閉したものだが、今度のポイン ト5はドアの裏側に厚いゴムが貼られており、驚いたことに開閉時の機械音はまったく しないのである。「そうです。リッド(前述のドアのことを彼はこう呼ぶ)のメカニズ ムも大幅に改良しました。良く見るとリッド全体の面積が小さくなっているのに気付か れると思います。従来はボティーの後にはみ出していた形の支点部を中心に近付けてい ます。駆動用のモーターもかなり小型にしました。そして肝心なことは、リッドの支点 部とモーターの間にスプリングを介在させ、スプリングのテンションによってリッドの 重量を受け止めてしまったことにあります。従って電源を切ると・・・。」アレッ、グ レイジャー氏が電源を切ると重たいはずのリッド部分が驚いたことにフワーと浮き上が ってしまったではないか。「スプリングによって機械的な重量バランスは平衡状態に保 たれており、駆動用モーターはリッドのクローズ方向へ向かってのわずかなトルクを発 生させるだけでよいのです。しかも、モーターのトルクを伝達するギア部に小さな羽根 が取り付けてあり、この羽根が通過する位置にフォトセンサーを配置してあります。こ のリッドの開閉に伴って羽根が回転し、その回転の速度をフォトセンサーが検出し、デ ータをコンピューターへ出力してコントロールしているんです。」随分と凝ったことを したものだが、そのメカニズムの利点は何か、と質問しようと思ったら。「ミスター・ カワマタ、まだ続きがあります。」「これまで動作音と操作性で不評だった点の両方を 改善しました。リッドの開閉スピードは均一ではなく、動作の開始と終了時点ではゆっ くりと、中間点では加減速して動いているのがお分かりでしょうか。更に、もっと大切 なことはクローズした後も圧力を加え続けているということです。これは音質に関係し てくるポイントなのです。」これには驚いた。私も同様な体験をしたことがあるのだ。 有名な日本製D社のトランスポートも、同様に振動と光を遮断し、空気の気密性を考慮 したトップローディング方式なのだが、演奏中に私がリッド(フタに当たるドア部分) の上に手を乗せて圧力を加えると音が変わるのである。設計者の目の前で実験したが、 技術的な回答はなかったことを記憶している。さすがマドリガルは目の付け何処ろがこ まかいぞ。「でも、静止状態でモーターに電流を与え続けたら焼けてオーバーヒートす るんでは。」これでやっと結論にたどりつけたという表情で。「心配いりません。先程 説明した羽根が動きを止めれば、それを察知したコンピューターがモーターへの供給電 流を微弱なレベルへ引き下げてオーバーヒートを防ぎ、ローターの回転方向に対する微 量のトルクを維持するようになっています。つまり、モーターがプランジャーに切り替 わるという発想です。」なるほど、私は得意そうに微笑むグレイジャー氏に大きく頷い て見せた。カタログには載っていないが、この厚み1 のアルミ製リッドは後部から数 ミリの穴が中心点までボーリングされており、ちょうどディスク・ダンパーにあたる位 置に磁気センサーを挿入しているのである。ネオジウム・マグネットを使用したディス ク・ダンパーを忘れてリッドをクローズすると「NO DAMPER」とディスプレー に表示されるのは、この磁気センサーが検出信号を出力するというしかけがあるからで ある。その磁気センサーの存在があるためだと思うのだが、前述したNO・31・5L のリッド裏側に貼られたゴムは中央部分を避けて貼られている。さて、近年のマーレビ ンソンはパワーアンプのNO・20シリーズでポイント5、ポイント6というアップグ レードを行い、プリアンプのNO・26シリーズとNO・38シリーズでもSタイプへ のアップグレードを実施してきた。このポイント(・5)とSタイプという表現はどの ように使いわけているのだろうか。「まず、Sタイプとはスペシャルバージョンのこと で、Sタイプとそのオリジナルを並売する種類を表しています。それに対してポイント 5などはオリジナルモデルをディスコンとして、まったく新しい設計による種類である という意味なのです。いずれにしてもマドリガルではアップグレードサービスを実施し ていきますが、既にオーナーが所有しているコンポーネントのボディーもユーザーの財 産であるという考え方で、お買上げ頂いた製品の価値観を将来的にも保証していくもの です。」「立派な考え方です。でもこれまではアンプというエレクトロニクス・パーツ の交換でアップグレードできる分野でしたが、NO・31・5Lのように多くのメカニ ズムを含むコンポーネントも対象とするのか。」「YES!段階的なアップグレード・ キットを用意するつもりです。まず、ドライブメカとデジタル回路。これで音質だけは ポイント5になります。次に、リッド・アッセンブリーとフェースプレートです。」N O・31・5Lの日本価格は165万円を予定しているのだが、アップグレードの費用 はどの程度なのだろうか。後日、輸入元が試算したところ完全なNO・31・5Lにす るためには、現時点の情報からするとおおよそ60万円程度の料金を予定しているらし い。正式決定すれば多少の変化があるだろうが、買い替えるか、アップグレードするか 、NO・31Lのオーナーにしてみれば悩むところであろう。ヒントとしては、アップ クレードサービスは修理としてみなされ割引はされないが、NO・31・5Lは定価よ り割引して販売されるので、実際の価格差はより縮まることになる。この辺は私にご相 談頂ければ 幸いである。 第四章『問題児』 次にD/Aコンバーターの新製品であるNO・36SLであるが、これも外観は全く と言っていいほど同一であり解説に苦しむところである。メカ部分を含み外観上にも変 化があり、操作上でのフィーリングにも違いがあればアップグレードの実感をつかみや すいのだが。困ったものだ。同様に感じた輸入元がマドリガル社に対して詳細な資料を 要求したところ、同社の技術開発責任者のジョン・ヘィロン氏が執筆した5ページに渡 る技術資料を送ってきた。この資料のハイライトは、オリジナルのNO・36LとNO ・36SLの使用パーツと素材の相違点を一覧表にしたページなのだが、これを総て和 訳しても皆さんはあくびをしてしまうばかりだと思う。驚くことなかれ、その変更点は 211か所もあるのだ。従って、本当に注目される点だけを抜粋して紹介することにし た。まず、大きなところから見るとアナログ基板の素材だが、NO・36Lは二層構造 のガラスエポキシ基板であり、これはプリアンプのNO・38Lと同様のものだ。そし て、NO・36SLでは四層構造のシアネート・エステルと呼ばれる航空宇宙分野で採 用されている新素材であり、NO・38SLで採用されたものと同一の素材を採用して いるのである。 そのアナログ基板に対する電源レギュレーターの改良ポイントが最も 顕著で、片チャンネルあたり70個のパーツが新規採用されている。この部分でオリジ ナルのNO・36Lは約60個の素子で構成されていたことからも、根本的な変更と追 加がなされていることになる。次に、入力部のインターフェースからDACに伝送され る信号ラインの精度なのだが、NO・36Lは数ボルトというレベルでデジタル信号を 伝送するRS−422という規格なのだが、SタイプではLVDSという低電圧伝送規 格で数百ミリボルトのレベルでデジタル信号をDACに伝送している。そして、肝心な DACのマッチングレジスターとして、NO・36Lではビシェイのプレジション・ポ テンションメーターを採用しており、この精度が0・01%であった。Sタイプではお なじビシェイではあるが、レーザー・エッチングの加工処理を応用した「メタル・フォ イル・ハンド・トリミング・レジスター」を採用している。この精度は0・0006% であり、手作業によって一個のDACボードそれぞれに対して、トリミング作業を施し ていくというのだからコストの上昇は大きなものがあると思われる。もちろん、FIF Oも従来通り採用されているが、大幅な改善処置によって更に効果を大きく引き出され た結果となっている。従って、この両者のアップグレードに関しては基板とアッセンブ リーの総入替えということで、残るのはオリジナルのシャーシーとケースだけという趣 である。同一の外観をもちながらも、これほどの徹底したアップグレードが音質にどの 様な進化を見せてくれるのだろうか。うたぐり深い私は、短時間ではあるが実物を拝借 してオリジナルとの比較試聴をしてみた。ケーブルまで含めて全く同一のシステムにお いてD/Aコンバーターだけを一々差し替えて聴いたのである。今まで、65万円にし ては過不足なくまとまった音質であると評価していたNO・36Lなのだが、Sタイプ を一度聴いてしまったら、もう後には戻れなくなってしまった。NO・36Lでの再生 音では、丸まった芯の鉛筆で絵を描かされている気分になってしまうのである。一旦S タイプに切り替えてしまうと、同じ鉛筆の芯を削って細く鋭い線で描かれる描写力を忘 れることが出来なくなってしまうのだ。もちろん、同じ鉛筆なのだから芯の固さも黒々 とした線の書き味も同じなのだが、いかんせん丸まった芯では解像度の高い繊細な線の 交差する様子は描けないのである。必然的に楽音の鮮明さが表れれば、その背景の余韻 とはコントラストが際立つようになり遠近感と空間表現が増長されてくるのだ。この差 は大きい。投資効果は間違いなくあるものと断言出来る。 さて、音質の評価に確信を得たところでNO・36SLのフェース パネルを眺めて いると、これまでお目に係ったことのないスイッチの存在に気がついた。「ティーチi r(teach ir)」と表示されたスイッチなのだが、他社製品も含めてこんな機能のスイッ チは見たことがない。初歩的なことなのだが、質問せずにはいられなかった。「これは リモコン用の赤外線シグナルを発信するための物です。標準装備のリモコンに入ってい ないコマンドを発信してラーニング・リモコンへ記憶させるのです。」エッ、と一瞬理 解に苦しんだ表情を見せると。「例えば、本体のモードスイッチを複数回押すと順送り に各モードに切り替わりますが、このキーを操作して希望モードのコマンドを直接本体 側から発信させ学習機能のあるリモコンに覚えさせてしまうのです。」テレビのリモコ ンによるチャンネル切り替えをアップダウンで送っていくのと、10キーで一発選局す るような違いか、というと笑いながら「YES!」という答えが返ってきた。ヘェ|ッ 、と思わず感心する。英文のオーナーズ・マニュアルには、この「ティーチir(teach ir)」によって得られる付加機能が十数項目に渡って解説されている。輸入元の担当者 に、日本語の取扱説明書にも同様な解説があるのかと尋ねると、「いいえ、こういう場 合に用いるキーである、という一行だけのコメントしか書いてありません。要は標準の リモコンによるコマンドをスキップさせてキー操作を省略しているものですから、我々 としては機能説明を複雑にしたくなかったのです。」という回答であった。なるほど、 D/AコンバーターのNO・36SLにはリモコンが付属していない事もあっての配慮 であろうと見受けられるが、リモコンを受信するばかりかと思っていたら発信機能まで 備えているとは思わなかった。「このキーがあるのはNO・36SLだけなのか。」と 聞くと。「NO!オリジナルのNO・36L、トランスポートのNO・37Lや新製品 のNO・31・5Lにも隠しコマンドとして左下のキーを押し続けることによって同様 な機能を果たすように設計してあります。」ウゥーン、なるほど。日本語ではこういう のを「芸が細かい」と言うわけですね、と言うと通訳の人が困ってしまったので慌てて 手を振った。 さて、最後がいよいよ問題児の登場である。マーレビンソン初の一体型 CDプレーヤーであるNO・39Lが、セールスする私の立場からすると問題児なので ある。 この解説は単純である。NO・37Lのトランスポートメカニズムに NO・3 6LのD/Aコンバーターを一体化させ、更にNO・38Lのバランス型アナログボリ ュームを搭載、そして2系統のデジタル入力を装備したものだ。これで予価が105万 円である。そして、セパレート式で前述の3点を合計した価格は192万円である。他 社のデジタルボリュームと違って単体プリアンプのボリュームを採用したことからも、 パワーアンプへの直結というメリットが浮上してくる。各製品のキーパーツだけを寄せ 集めて、87万円も安くなってしまったらビジネスの面では単価ダウンになってしまう 。この辺を問いただす。「我々が開発した成果を、より低価格でより多くの人々に提供 したいと考えたのです。」それはわかるのだが、価格差をどう説明するのか。「NO・ 36L、37L、38L、とセパレートシステムに音質上のアドバンテージを約束して くれないと、どちらを勧めて良いのか判断が出来ない。そして、以前にその三点を販売 した人に申し訳ないと思う。」と、最前線のセールスとして当然の質問をぶつけてみた 。でも意外と簡単な答えが、しかも自信たっぷりに返ってくる。「もちろん、電源の問 題やいくつかの技術的な根拠からも、セパレートシステムの方に音質的なアドバンテー ジを充分に保証します。」非常にビジネスに徹した予想通りの回答であるが、残念なが ら実物が来ていないので実験のしようがない。これは、現時点では素直に受け取ること にして、もっと決定的なことを質問することにした。「NO・38シリーズやNO・3 6シリーズのように、このNO・39LもSタイプを出すんですか。」グレイジャー氏 は難しい顔をして。「NO!NO・39Lはあくまで低価格を狙った製品で、システム をコンパクトにシンプルにまとめることをコンセプトとしている。仮にSタイプを設計 しても、コストの点で自社のセパレート式のシステムに近似してしまい競争力が無くな ってしまうので現状では考えていません。」そうですか。それでは実物の到着を待って 評価を下し、後はユーザーの選択にまかせるということにしましょう。この日は土曜日 ということもあり、お客様のご来店を予定しており、そろそろお開きという頃合いを考 えながら最後の話題を投げかけて見た。「そこにあるジェフローランドのコヒレンスの セールスでは、私は現在でも日本における販売台数においてタイトルホルダーであると 自負しています。日本の価格で200万円を超えるプリアンプでも、良いものは認めら れ全国で200台以上のセールスを記録しています。昨年うかがったハイエンド・プリ アンプの構想はどうなっているのですか。」この質問に関しては、同行してきたジェリ ー・ハナ氏と神妙な表情で話し合ってから慎重な回答をしてきた。「正直に言って、日 本でこれほど高額なプリアンプが大きな成果を上げているということには驚いています 。しかし、我々が考えるリファレンス・シリーズ(現状ではNO30・5、NO31・ 5、NO・33がそれに相当する。)は10年間のライフサイクルを前提に企画設計さ れており、構想はあるものの相当なレベルを目指しているため開発には時間がかかって います。もうしばらくお待ち頂ければありがたいのですが。」そうですか、前向きな姿 勢なのであれば期待してお待ちしましょう。何はともあれ、本邦初公開という情報を提 供してくれたことでもあり、一年ぶりの再会には有意義なものがあったようだ。私のと ころから他の販売店にも周られたようだが、例のNO・33Hの話題は出なかったとい うことで、グレイジャー氏から得られた信用と評価は一年経っても変わらなかったよう だ。今回は、私の方からグレイジャー氏の背中に向かってつぶやいてみた。「ナイス・ ガイ!」 【完】 |
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