第二十話「スピーカー・デザインにおける第三の波」
第一章『回想からの発端』 1993年8月5日、この日は木曜日で私の定休日であるにも関わらず今にも降り出 しそうな曇り空の下を、一路東京は港区の麻布を目指して移動をしていた。この年はビ ル・クリントンが大統領に就任した年であり、日本では皇室の慶事をマスコミが盛んに 取り上げるという幕開けの一年であったことは記憶に新しい。しかし、この年の1月7 日から10日にかけて米国ネヴァダ州ラスベガスにおいて冬季コンシュマーエレクトロ ニクスショー(冬季CES)が開催されたことを知っている日本人は何人いたのだろう か。ましてや、これから聴きにいこうとするハイエンドスピーカーの存在が、この冬季 CESで発表されたことをしっかりと記憶している日本人は大変少ないのではないだろ うか。職業上の情報がいち早く入って来る私でさえも、この段階では昨年(92年)か ら噂として耳に入って来るだけだった新進気鋭のブランドが、いきなりハイエンドマー ケットに登場することになったのだから無理もない事である。その新進ブランドとは、 クァドラチュア(QUADRATURE)オーディオテクノロジー社である。クァドラ チュアという社名は米国のブランドに数多く見られる人名からとったものではない。幾 何学でいう「円積問題」(Quad−rature o a cirecle)から由 来している。これは「与えられた円と面積の等しい四角形を作れ」という問題で、実際 に作図するのは不可能な命題として有名である。この問題には古い歴史があって19世 紀後半になってやっと作図不能であることが証明されたが、それでも想像力の世界では 「ある円と同面積の四角形」は作れそうな気がする。ハイ・パフォーマンスな音楽再生 システムの目的もまた、不可能を可能にするような洗練された想像力を刺激することに あると言われている。伝統と実績に裏打ちされた高名なオーケストラや歌手が、自分の 部屋で実際に演奏してくれる事は事実上ありえない。だからこそ、そのありえない事を イマジネーションによって現出させる必要があると同社は考えている。「不可能を思い 描けるイマジネーションへ向けて絶えず前進すること。」クァドラチュアの目指すこの 姿勢が社名に反映されているということだ。さて、この様な独創的で意味深い命名を授 けた創立メンバーとは、一体どんな人物たちなのであろうか。クァドラチュアの四人の 創立メンバーは91年まで、あのスレッショルド社に在籍していた。もう20年も前に なるがスレッショルド社の創立にネルソン・パス氏と共に参画しデザインを担当したイ ンダストリアルデザイナーであるルネ・ベズネ、スレッショルド社においてデジタルと アナログ両分野のR&D(研究開発部門)を担当しクァドラチュアにおいても同部門を 担当するウェイン・コルバーン、スレッショルド社時代は製造部門の長を務めていたデ イブ・マットスはデジタル信号処理用ハードウェア管理を担当、スレッショルド社では マーケティングとマーチャンダイジングを担当し、現在もクァドラチュアのセールス部 門の責任者であるティム・ミュアー、以上の四名が創立メンバーである。もちろん、ル ネ・ベズネ氏が総監督責任者であり、氏のインスピレーションによって現在の製品コン セプトの基本構想が打ち立てられた。 概ね新興メーカーは数百から数千ドルという価格帯の製品から発売して会社の成長過 程を見ながら徐々にグレードを上げていくものだが、クァドラチュアの場合には、いき なり数万ドルというハイエンドマーケットに進攻を開始したのである。その設立当初か ら妥協を見せない物作りの姿勢から日本に向けて第一号機を送り付けてきたというのだ から、休みを返上して試聴会場に向かう私の心情も否応なくハイテンションになってし まった。日本へ輸入する同社のモデルとしては、比較的ハンドリングしやすいDSP3 R(ペア290万円)と、当日用意されていた同社のフラッグシップ・モデルのDSP 1R(ペア720万円)が決定している。輸入元が用意した高樹町近辺の試聴会場は4 0畳以上の広さがある、れっきとしたスタジオである。しかし、残念ながらスタジオは スタジオでも写真撮影用のスタジオである。一見しただけで音響的にスピーカーを吟味 出来るルームアコースティックではないことがうかがい知れた。本邦初公開の高価なス ピーカーを聴く機会でもあり、業界の内部でも限られた人にしか公開しないという貴重 な体験が出来る席にご招待を受けながら失礼を承知で、なぜ私がはっきりと試聴会場の 音響的な不備を指摘せざるを得なかったのには訳がある。実はこの日に試聴したDSP 1Rを私が販売し、お客様のリスニングルームで調整を行った上での音を聴いているか らなのだ。高価な製品を販売しセッティングをこなした責任と実績を自負するだけに、 敢えてお客様のお宅での再生音を思い出し、DSP1Rの本分とする音はこれだという 確信を得ているところが苦言を呈する理由でもある。つまり、私が評価しているDSP 1Rの音は、1993年8月5日の音ではなくDSP1Rのオーナーとなられた方の部 屋で聴かせて頂いた音を基準としているのである。 第二章『低域再生のためのシルエット』 さて、このDSP1Rの外観上のデザインとしては、低域用アレイと中・高域用アレ イとのセパレート構造で、インフィニティーのIRSベータのような片側2ピース構成 が基本となっている。この片側二つのアレイは、それぞれが上下に分離する2ピース構 造で、使用に際してはスタッキングして次のような大きさに組み立てられることになる 。低域用アレイの本体は、幅337mm×高さ2204mm×奥行き572mmであり 、これが幅445mm×奥行き610mmのベース上にセットされ、その総重量は16 8kgに及ぶ。中・高域用アレイの本体は、幅369mm×高さ2064mm×奥行き 191mmであり、これが幅400mm×奥行き324mmのベース上にセットされ総 重量は73kg。従って片側2ピースで241kgとなり、前述のインフィニティーの IRSベータが片側2ピースで97.4kgであるのに対して同形状のシステムとして はかなりの重量級であることがうかがえる。世界中のハイエンドスピーカーシステムの ペア総重量で、私の知りえる限りではインフィニティーのIRS・Vが約682kg、 ゴールドムンドのアポローグが650kg、ウィルソンオーディオのWAMMが585 kg、DSP1Rはこれに次ぐ482kgという偉容を誇ることになる。しかも、創立 して第一作目であるという事実からも如何に彼らの理想が高かったのかをうかがい知る ことが出来る。しかし、これらの超弩級スピーカーシステムの中にあって、一般家庭の 室内にセットした場合のインテリア性の面でDSP1Rが極めて優れている点がある。 それは、正面からスピーカーを見た時の投影面積が極めて小さいことだ。確かに高さは 二m近くあるのだが、低域アレイの横幅は約33cmで中・高域アレイの横幅も約37 cmと抜群のプロポーションである。中・高域はともかく、低域の再現性はどうなのか と心配になるような姿であるが、よくよく突き詰めてみると見事としか言いようのない 斬新な設計が見えて来るのである。よく、低域のウーファーの大きさを表すのに、「口 径が何センチのウーファー」と表現しているが、実際の振動板の直径とは一致しない。 エッジの部分を差し引くと、大体がその数値の八割程度の直径を持つ振動板である事が わかる。すなわち、何センチウーファーと称しているのは、フレームを固定している取 付けビスの間隔を指しているのである。従って、俗にいう30cmウーファーの殆どは 直径が24cm前後で円形の振動面積を持つことになる。もちろん、振動板はコーン形 状になっているので、その斜面を計算すればもっと正確な面積となるのであろうが、こ こでは比較のために単純な考え方をして、半径12cmとして面積を求めると452. 16cuが 30cmウーファーの実効放射面積としておく。 さて、DSP1Rの低域 アレイの片側には、16.5cmの小口径ウーファーが16個、同口径のパッシブラジ エーターが12個、と合計28個もの振動板が装備されている。実際に測ってみると、 このユニットのコーンの直径は12cmであり、一個あたりの振動面積としては半径6 cmとして面積を求めてみると、113.04cuということになる。これが28個あ るということは、113.04cu×28で3165.12cuという大変大きな面積 で空気を揺さぶることになる。これを、前述の30cmウーファーの実効放射面積とし て計算された452.16cuで割ってみると、ピッタリ七個分に相当する。インフィ ニティーのIRS・V(1300万円)が30cmウーファーを片側6個装備した低域 用アレイを有しているが、実質的な計算をしてみるとクァドラチュアの設計には規制概 念を打ち破る斬新さがあるのがわかる。それでは両チャンネルで30cmウーファー1 4個分に相当する小口径ウーファーをなぜ採用したのであろうか。まず、大口径ユニッ トに比べて振動系の質量が小さくなるので、低レベル小信号時の反応が良くなることが あげられる。これは立上りが鋭く鋭敏になるという意味のほかに立ち下がりも同様にな り、低域におけるトランジェントを得る目的で大変有効な手法である。また、大口径ユ ニットを採用した場合にはエンクロージャー設計の上でユニットのエフゼロ(最低共振 周波数)を含めてシステム全体での共振峰が発生する場合が多いのだが、クァドラチュ アのような手法ではその可能性を大きく回避する事が可能となる。しかし、小口径ユニ ットの採用には難点もある。まず第一に放射面積が小さく振動板に対して音響的な負荷 がかけられないのでユニットのエフゼロが上昇してしまい、簡単にいうと重く重量感の ある低域が出しにくいということだ。 これについてクァドラチュアは、ふたつの手段によって難無く問題をクリアーしてい る。まずは前述のユニットの複数化という単純な方法であり、全部で56個もある低域 ユニットのうち、24個をパッジブラジエーターとしたことである。このパッシブラジ エーターの質量を若干増すことによって低域の再生限界を延ばすことが出来る。それで は、このパッジブラジエーターの質量はどのように考えたら良いのだろうか。「軽けれ ば軽いほど、ドライバーの背圧によるラジエーターの動きは 鋭敏になるのではないか 。」これは至極もっともな発想である。しかし、これではユニットの共振点は同じなの で、低域の質感に恩恵は得られない。例えば、あのJBLのK2S5500のリアには バスレフポートが二つ、つまり30cmウーファー1個あたり直径8cm×長さ17c mのバスレフポートが装着されている。あのJBLが計算の上でこのポートを採用した のだから、確固たる物理的な根拠があるものと思われるが、私の記憶に基づく大まかな 計算ではこのバスレフポートの内容積に等しい空気の質量は約51gであると計算され る。この51gを重いと思うか軽いと思うかの印象は人それぞれだと思うが、ティール の最新スピーカーであるCS7に装備されている30cm口径のパッシブラジエーター を例にあげてみた。この振動板の重量と共振周波数をジム・ティール氏に質問したとこ ろ、「重量は約150gで、共振周波数は25Hzにとっている。」という返事であっ た。この条件を満たすポートチューニングを口径8cmのダクトで行うとすれば、その 長さは何と3181cmとなってしまい実用のスピーカーには到底ありえない数値とな ってしまう。このようにパッシブラジエーターの振動板は、空気のしかるべき容積の質 量と等価にすることによってシステムの低域再生に大きく貢献することが出来る。詳し くは情報を入手していないがクァドラチュアのDSP1Rの片側には12cm口径のパ ッシブラジエーターが12個も取り付けられており、まったくの推測ではあるが1個あ たりの振動系質量が数グラムから20グラム程度と仮定しても、12個分の総質量とし てはティールのCS7を上回る規模になっているものと思われる。しかし、パッシプで ある以上はドライバーの運動を1パーセントのロスもなく放射出来るわけではなく、ま して質量を追加した場合にはドライバーの背圧を100パーセント振動エネルギーに変 える事は困難になる。クァドラチュアのDSP1Rの場合も、ドライバーとしてのウー ファー4個に対してパッシブラジエーターが3個という比率もこの辺の計算があっての 事だと推察している。ここまでのスピーカーとしての基本性能を考察しても、DSP1 Rの低域再生能力がそれだけで十分に優れていることがわかるが、クァドラチュアはD SPアライメントという最新のハイテクを駆使してこの問題を解決している。私の記憶 が正しければ、DSP1Rの場合は本体内臓のパッシブネットワークによって170H z以下の信号が低域アレイに入力されているはずだが、前述のようにスピーカーとして の基本原理から追い込んでいった場合でも限界がある。それに対して、低域の再生限界 付近にあたるエンベローブの下限に、付属のデジタル・アライメント・プロセッサーに よって、デジタル領域でのブーストをかけるのである。しかも、前述のスピーカーとし ての裸特性上発生する共振周波数以下を急峻にカットし、音にならない振動板の不必要 な振幅から変調歪が発生しないようにしている。簡単にいえば低域再生のトランジェン ト(過渡特性)を犠牲にしないで、低音の質感に重みを持たせる効果とでも表現出来る だろうか。これと同じ事をアナログのグラフィックイコライザーやパラメトリックイコ ライザーでやろうとしても、低域全体が膨らんでしまい解像度を著しく損ない到底ハイ ファイと呼べる代物にはならない。 第三章『音場表現の十字線』 このDSPアライメント・ユニットには、スター・セミコンダクター社製の五六ビッ ト相当の内部演算精度をもつDSPチップが内蔵され、実際の信号処理はこのDSPチ ップが行う。この様な補正のプログラムは内臓のROMに書き込まれており、新開発さ れたソフトウェアに対してはROMを交換する事によってアップ・トゥ・デートが可能 となっている。このDSPアライメント・プロセッサー・ユニットの仕事は低域だけで はない。2ウェイ以上のスピーカーの場合は必ずといって良いほどクロス・オーバー・ ネットワークを内蔵して、個々のユニットに帯域分割を行ったオーディオ信号を供給し ているわけだが、どうしてもここで位相のエラーが発生してしまう。クァドラチュアの 論理によれば、「クロスオーバー・フィルターの特性が急峻になればなるほど、振幅特 性がフラットになるにもかかわらず時間軸領域における位相エラーは大きくなる。つま り、従来のスピーカー・システムでは広い帯域に渡ってわずかな時間的不一致を示すか 、狭い帯域にいてかなりの時間的不一致を示すかのどちらかになる。こうした問題に対 して、通常であれば電子部品を増やすことによって対処しているが、余分なリアクティ ブ回路を形成される結果となり、さらにそれを打ち消すためのリアクティブ回路が必要 になりシステムを複雑にしてしまうパッシブネットワークの限界がある。」これも大変 うなずける話である。先程ティールを例に上げたが、同社のCS5ではネットワークに 114個のパーツを使用しており、パッシブ・エレメントとして八七個の素子を使用し ている。注目すべきはその内の32個の素子は、時間軸応答性のために用いられており オーディオ信号は通っていないということだ。同様なことが新作CS7でも50個前後 の素子を使用しながら、その内の半数をやはり同じ目的に使っている。クァドラチュア はこうしたパッシブ・エレメントの使い方を必要最小限にして、時間軸の補正精度をよ り高める方法としてDSPアライメント・プロセッサー・ユニットを使用するという、 アナログパーツでは実現出来なかった高精度のネットワークシステムを作り上げてしま った。このデジタル技術とアナログ技術が融合する形で完成されたネットワークによっ て駆動される中・高域アレイも大胆な構成をとっている。片側のみで五インチのスコー カーが10個、1インチのトゥイーターが20個、縦方向のインライン状にビッシリと 取り付けられている。従って、インフィニティーのIRSシリーズに見られるような後 面に高域を放射するユニットを取り付けて、高域だけをダイポール型の放射パターンを 持たせるということはしていない。また、ウーファーからトゥイーターに至るまで、振 動板を強化ポリエチレンを主材料とする統一素材としているところも注目すべき配慮で ある。せっかくのハイテクを用いても、肝心の振動板の素材が高・中・低域と別のもの であれば、質感の統一が難しくなって来ることを嫌ったのであろう。それにしても大変 な数のユニット数であるが、なぜここまで必要としたのであろうか。これについては、 私が経験した数々のスピーカーの試聴の上で、大変強く印象に残る記憶がある。199 2年4月、当時の日本には一台しかなく輸入元のエレクトリの皆さんも「こんな大きな ものを自社の試聴室から出して、販売店に持っていくなんて勘弁してくれ。」と渋って いたのを、無理を言って持ち込んでもらったマッキントッシュのXR290を聴いた時 のことである。これもクァドラチュアのDSP1Rと同じく、片側で5インチのスコー カーが12個、1インチのドーム型トゥイーターが24個、という多数の中・高域用ユ ニットを装備したシステムである。一般的に言って、多数のユニットを縦方向のインラ イン状に配置することは、水平方向の指向性を拡大することが目的とされている。しか し、この「水平方向の指向性」という言葉の定義にも新しい解釈を設ける時代であると 思う。これまでの概念からすると「水平方向の指向性に優れる」と言うことは、スピー カーの主軸(正面)から何度外れた場所においても、つまり斜めのどの位置で聴いても 均一な周波数特性が得られるというのが通説であった。簡単に考えれば、色々な角度か ら耳で聴いて楽音の音色に変化がないこと、マイクと測定器で測定しても周波数特性に 変化が表れないことである。モノラル信号で1台のスピーカーだけをこの様な尺度から 判断すれば、設計の優秀なものは既に一定レベル以上の指向特性を持っているものだ。 しかし、これを2台使用するところからリスニング・ポイントの特定が制約として発生 してしまう現象があった。つまり、二台のうちのどちら側かに偏って聴いた場合、正面 で聴いたときの音像の位置からどの様に偏った位置に音像が移動してしまうかという見 方で検討してみる必要があるということだ。この様な観点からすると、マッキントッシ ュのXR290は大変優秀であった。スピーカーの中央に定位した歌手はそのままで、 オーケストラの基幹となる弦楽器の配置もそのままと、ステレオイメージの展開は見事 であった。中・高域ユニットの多数化というのは、どうやら左右チャンネルの放射する エネルギーが揺るぎないものであれば音像を空間に釘付けにしてしまうようである。こ れは周波数特性のほかにも、リスナーに対しての音圧的な情報の届け方にも「放射エネ ルギー的な水平方向の指向性」という分析の仕方があるように思える。そして、もう一 つ中・高域ユニットの多数化として、このXR290を通して今まで聴いたことのない 音が聴くことが出来たのである。激動の70年代にミュージシャンも変化を求めたのか 、4ビートから逸脱したジャズメンたちが電子楽器をバンドに取り込み、フュージュン というよりはクロスオーバーと呼ばれていた頃、デイブ・グルーシンに見出されたアー ル・クルーの1976年の録音で「キャプテン・カリブ」というアルバムがある。この 一曲目のタイトル曲には、日本流に言えば小さな洗濯板をスティックで引っ掻く「ギロ 」というラテン楽器の一種が使われているのだが、今まで散々聴いてきたギロの音とは 格段に違うのである。あまりの違いに我耳を疑い、その時ここに置いてあった他社のス ピーカーすべてに切り替えて聴き直したほどであった。我々が通常手にしているレコー デッド・ミュージックというものは、ヴォーカルを含めてギターやバイオリンのソロ演 奏のものであればスケールを拡大する方向の再生となるが、オーケストラやビッグバン ドの演奏では縮小して聴くことが大半であると思う。ところが、強靱なリズムセクショ ンによって彩られているこの曲のイントロにはジーッ、ジーッ、というギロの音が目の 前の空間でリアルスケールに収録されている。他のスピーカーでは「あぁ、この音はギ ロだ」という認知しかなかったものが、高速度カメラによってギザギザの表面をスティ ックが弾かれていくさまをスローモーションで克明に拡大された映像を見せられたよう な気がしたのである。こんな原始的な楽器の再生音に対して、中・高域ユニットの多数 化によるエネルギー感の充足がこれほどまでに貢献度の大きいものだとは思わなかった のである。そして、これはこのXR290とクァドラチュアの双方に共通することなの だが、立ち上がって聴いても座って聴いても音像の位置関係はピタリとバランスを保っ たままに頭の位置関係と一緒に上下して追随して来るのである。多数のユニットをイン ライン配置した場合には、音波の放射パターンは円筒状の拡がりを見せる。各帯域ユニ ットが単一音源として一つしかない場合は、立ったり座ったりをすれば楽音を見上げた り見下ろしたりということになる。しかも、その場合には床と天井の反射が立った場合 と座ったときとは違ってくる。音波のラジエーション・パターンが円筒状の場合には垂 直方向に対しての過度の拡散をふせいで、床と天井の音響的な悪影響から回避する効果 があるのである。クァドラチュアは、これらの基本技術にDSPという精緻な調整能力 を加味してフォーカシングをより明確に仕上げたのだ。 第四章『日本で唯一の音』 このクァドラチュアのDSP1Rに関しては、ステレオサウンド誌の第108号の1 50頁から6頁に渡って評論家の朝沼予史宏氏の詳細な記事が掲載されているので是非 ご参照頂きたい。さて、私が販売したDSP1Rの納品については、輸入元の株式会社 ノアにしても初めての大仕事となった。わざわざハイルーフの二トン車をチャーターし て総勢六人の同社の皆さんが駆けつけてくれ、残暑の厳しい中を下取り品の大型スピー カーの搬出から始まって、8ピースに分離され梱包されているDSP1Rを二階のリス ニングルームに上げる作業は三時間以上かかった。しかも、ピークではチャンネル当た り1200Wのパワーを飲み込んでしまうDSP1Rに対して、オーナーが求める音量 の問題は別として万全を尽くしておこうということで、チャンネル・ディバイダーを使 用して低域を独立させたマルチ・アンプシステムというセッティングとなった。搬入の 最中でお客様の敷地内にある井戸水を御馳走になり、これが何と冷たく何杯もお替わり するほどおいしかったことを思い出す。さて、日本の一般的な住宅事情からするとクァ ドラチュア社のルネ・ベズネ氏邸のリビングルーム程の空間を得ることは難しい。事前 の検討から、QRDシステムを活用してルームアコースティックの調整を施した。スピ ーカーの間にはディフィーザーを高さ1m80cmまで2段重ね、その両翼には同じ高 さまでアブフューザーを計八枚、フロアー・フォイルという床置き用の三角形の吸音体 をコーナーに計8個という徹底した吸音拡散処理を行った。DSP1Rの低域用アレイ は、リスナーに向かって直接ウーファーを正面に向けることなく、一対のアレイが左右 の内外に向かって低域を放射する。従って、低音楽器のパートを数種類聴きながら低域 用アレイの間隔を調整することから始める。これにはオルガンのような通奏楽音ではな く、キックドラムやウッドベースなどのリズムセクションの再生音を手がかりに、10 センチ刻みに広げたり狭めたりを繰り返す。最初は霧がかかっていたような視野に、あ るポイントから風が吹き初めて音像が見えて来る。「あと5センチ、内側へ。今度は外 側へ。」と、納得出来るポイントが決まって来る。さて、次は中・高域用アレイの番だ が、横幅40センチと奥行き32センチとカセットデッキ一台分の床面積しか取らない ため、調整のための可動範囲が大変に広くとれる。今度はヴォーカルを最初に聴く。そ れも歌手の口元が大きくたっぷりと録音された海外のジャズ・ポピュラー、あるいはホ ールエコーを豊富におりまぜているクラシック系のソロ・ヴォーカルよりも、口元の動 きが鮮明に捉えられた日本人のスタジオ録音の方が良いようだ。これで先ずセンターに 浮かび上がる口元から、音像を絞り込む方向で左右の間隔を決めていく。あるポイント に近づくと、舌が口の中で回る様子が見え始め、口元だけの歌声から息継ぎのために膨 らむ胸元まで見えて来るようになれば一安心。でも、これだけで終わる訳ではない。今 度は対照的な大編成オーケストラの交響曲で、X・・Z軸の各方向への立体的な拡がり を見ていく。オーケストラの中心となる弦楽器群の真中が空いてしまわない程度、その 後方に位置する木管楽器群がきちんと分離して聴こえるか、金管楽器群が放つホールエ コーは左右スピーカーの両翼まで展開していくか。一旦狭まった間隔が少し開いて、ス ピーカーの内振りの角度が変化していく。こんな作業をしばらく繰り返しながら、部屋 に合った演奏のステージ感が次第に鮮明になって来る。以前にも述べたことがあるが、 スピーカーのバッフル板の影響が無くなると音場感はスムースに拡大されていく。この クァドラチュアDSP1Rの中・高域アレイには、そのバッフル板はほぼ無いに等しい もので音場の拡がり方は大変な魅力を持っている。また、どんなに音量を絞り込んでも 、他の楽器群と同等に縮尺され正確に空気を揺さぶって来るパイプオルガンは見事の一 言に尽きる。この低域のリニアリティーについては、上質の「羽根蒲団」のような質感 に例えられる。たとえ数キログラムの羽毛が入っていようとも、軽く柔らかく身体を包 み込んでくれる温もりを逃がさない音。正面を向いているコンベンショナルな形のウー ファーが、同じ重量のウレタンクッションを詰め込んだようなズンッ、ドンッと、低音 の塊を投げかけて来ると仮定するならば、まさに羽毛に含まれる空気によって体積が何 倍にも膨らむが結局は同じ重さであること(ここが肝心なところ)を認識させるような 羽毛蒲団の例えである。直線的な感覚で音源と対峙するコンプレッション・ホーンとド ライバーを用いるスタジオモニターの感触とは大きく異なり、演奏者との距離感を実際 の演奏空間としてシミュレーションしてくれる、言うなればスピーカーの存在感が消え てくれる感触を楽しんでいきたいシステムの最高峰である。思えばルネ・ベズネ氏がス レッショルド社創立以来の20年間で様々なスピーカー達と遭遇し、そのキャリアの中 で、ダイナミック型スピーカーの代表例としてウィルソンオーディオ、ティール、イン フィニティー等々、そして、プレーナー型を代表するところではマーティン・ローガン 、アポジー、等と近代を代表する数々のスピーカー達をスレッショルドのアンプが鳴ら す様を見てきた事であろう。文字通りダイナミック型のダイナミズムとエネルギー感プ レーナー型のもつ音場感の美しさと位相感の整った精緻な表現力。それらを知り尽くし てきた同氏がDSPを駆使することによって、自らの理想を具現化し、この両者の優れ た特徴を見事に融合させる事に成功したものと断言できる。 第五章『満足の裏付け』 このクァドラチュアDSP1Rには、ハンドリングしやすいDSP3Rという弟分が あり、当然上級機と同様なDSPユニットを使用している。これは単純に言えば、低域 と中・高域アレイを半分にしてスタッキングしたデザインである。上級機と同じウーフ ァーユニットを4分の1の8個、パッシブラジエーターは3分の1の8個に縮小し、中 ・高域アレイもスコーカー三個とトゥイーターは六個という構成だ。この低域部は前例 と同様な比較をすれば、30センチ口径ウーファーの4個分に相当する放射面積を持っ ていることになる。セッティングに必要な床面積は、わずかに31cm×45cmと上 級機と比較すれば小振りではあるが、実際のパフォーマンスでは想像以上の低域再生能 力を持っている。そして、昨年の夏頃であろうか、このDSP3Rがマイナーチェンジ を施され、DSP3Sとなった。価格とスペックには変更は無いが、エンクロージャー とDSPユニットに変化がみられる。現在までの広告やカタログ上の写真は旧タイプの 外観であり、新型はまだ撮影されていないため外観を確認するには実物をここでご覧い ただくしか方法がない。カルフォルニア州のサクラメント市郊外にあるランチョ・コル ドバに設立された同社では、91年から93年の前半までカルフォルニア州で最も伝統 と技術力を評価されているファニチャー・ファクトリーにエンクロージャーの生産を依 頼していた。家具職人の手によって一台ずつ仕上げられたローズウッドのエンクロージ ャーは優雅な曲線美を描いており、高級家具としての趣で無理なくインテリアに溶け込 んでくれる。しかし、工業製品としての品質管理面において生産される製品にミリ単位 の均一性を求めるということは、素材となる木材の質感を重要視する家具職人の感性に はそぐわないものがあったらしい。つまり、一品一品の仕上げを見る限りでは格調ある 出来栄えなのだが、出荷量が増えるにつれてその均一性を求める生産体制にシフトする ため、スピーカー・エンクロージャーの専門工場に切り替えたらしい。もちろん基本コ ンセプトは同じであるが、よく観察するとその変化が随所に見られる。クラフトマンシ ップにあふれる手作りの雰囲気を仕上がりに残す手法で高級感を出していたのに対して 、機械化された工法によってリジッドな剛性と加工精度を取り入れた事になる。このエ ンクロージャーの変化をどのように捉えるかは解釈の仕方がまちまちであるが、同社が 今後躍進を遂げていくためにはやむを得ない選択であったと思う。しかし、私はこのフ ロアーにおいて新旧両方の音を聴いてきたが、結論としてエンクロージャーの変化を意 に介さずとも十分にあまりある可能性を感じている。DSP3Sの全高は175cmで 、その内床から88cmまでが低域アレイとなっている。従って、背は高いが約90c mから上に中・高域ユニットが装着されているので、他のスピーカーのトゥイーター位 置と比較しても、椅子に座った状態としてのリスニングポジョンで何ら問題は無い。さ て、今やカラーテレビも横長のワイド化の時代に入りつつあるが、このDSP3Sも一 口で言うならばパノラマ的な音場の展開が見事なスピーカーである。それも、家庭のテ レビサイズというよりは、劇場のスクリーンで見るようなスケールを楽しむことが出来 る。本体の半分から上に位置する中・高域ユニットの連携は大変巧みに音像を描きだす のだが、複数のユニットがあることを忘れさせてくれるほど歌手の口元は鮮明なポイン ト・フォーカスが実現される。このヴォーカルの鮮明さには、ティールのCS5を初め て聴いた時と同じ感銘を受けた。CS5も400Hz以上を三個のユニットが受け持っ ているが、先に述べた通り位相と時間軸の管理に大変な神経を使って設計されている。 これらの問題点が解決されると、定位感と音場感が改善されるのは周知の通りだが、私 はこれにもう一つ新たな恩恵を感じ取っている。それは、特にヴォーカルを聴いたとき に感じるのだが、肉声の微妙なバイブレーションというのかエネルギー感の集中された 高まりを感じる。最近の録音テクニックで、歌手の口とマイクロホンの間にポップノイ ズ(日本語では爆烈音という表現)をキャンセルするための小さなスクリーン(女性の ストッキングの生地を丸い枠に張ったようなもの)を設置することがある。外国人のロ ックアーティストの録音風景などの写真で見かける事も多いが、外人の発音・発生法や 歌手の癖などによってマイクが吹かれてしまうのを防止するのが目的である。しかし、 「美しい日本語の響きを大切にするのであれば、このスクリーンは使わない方がいい。 」というベテラン録音エンジニアの話しを雑誌で読んだことがある。特に、「本当に歌 のうまい歌手ほどマイクの使い方がうまいものだ、マイクを吹くなどという事は発声法 が未熟な歌手ほど多くて困る。」というコメントが印象に残っている。内緒話しをコソ コソと耳元でささやかれるとくすぐったい感触があるが、おそらくこのスクリーンを通 して同じ事をすると違った感触になってしまう事だろう。まさに声帯から発せられた音 波が喉元を何の抵抗も無く抜け出て、微妙なビブラートや細かい息づきも声と一緒に運 んで来る様子がわかる。思えば、様々な音階を唄いあげる肉は複数のスピーカーユニッ トの上を行ったり来たりしながら再生される訳で、それらの位相が正確に管理されてい ないと肉声の実在感を相殺してしまう事にもなりえる。聴き込むにつれ、クァドラチュ アがデジタルをスピーカー分野に取り入れた目的が理解されて来る。最後にクァドラチ ュアは、私が販売した数々のスピーカーの中でも、極めて高いオーナーの満足度が得ら れている事実をお伝えしておきたい。 【完】 |
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