第十七話「リチャード・エステスを見て思うこと」
第一章『リアリズムの台頭』 「スーパー・リアリズム(super realism)1970年ごろから出現し た精細で克明な写実主義。ハイパー・リアリズム(hyper realism)とも いう。概ね写真を参照して描かれることからフォト・リアリズムと言われることがある 。あえて機械の視点を選び、対象をそのまま受け入れて見ることを意識化しようとして いる。」(集英社イミダス94年版より)このスーパー・リアリズムの代表的な画家と して名高いのが、私が敬愛するリチャード・エステスである。「1971年ラディカル ・リアリズムの名でまとめた画家の作品をスライドで紹介する催しがニューヨークで行 われた。その時、ラルフ・ゴーイングスのトラックの作品、リチャード・マックリーン の競馬馬、ロバート・ベクトルの乗用車の作品に混じってリチャード・エステスの街頭 風景も紹介されたと伝えられている。当時の美術評論家リンダ・チェイスのレポートに よれば、それを見た観衆の反応は好意的なものとは程遠く、作品そのものの存在理由を 疑問視する声が多かったという。「写真をそっくり写すのなら、なぜ描くのか」「写真 と同じではないか」という質問が続出したという。それに加えて、あまりにも赤裸々に モノを描くこと自体が卑猥でありポルノ的だという指摘もあったらしい。当時ハード・ ポルノが流行していたせいもあって面白い批評であるが、モノそのものに非常に迫る手 法が、ある種の不快感と嫌悪感をもって迎えられた時代であることを物語っており興味 深い。ヒッピーに代表されるようなカウンター・カルチャー運動から、ベトナム反戦運 動へと展開する当時のアメリカ社会の苦悩がスーパー・リアリズムやハード・ポルノの 出現を促したのかもしれない。スーパー・リアリズムの登場を当時の社会状況との関わ りあいで捉えられることが可能と思われる手がかりは、スーパー・リアリズムの特徴と されるクールな醒めた感情である。あらゆる既成のものを拒絶する非参加の感情、ある いはニュートラルな観点に身を置いて一切の価値判断を放棄する姿勢といえようか。既 存の制度に関わる総てに疑義を突き付ける冷たい視線がそこにあった。1940年代か ら50年代へまたがる抽象表現派の「自閉的熱狂」から、60年代のポップ・アートの陽 気な社会賛美を支えたエネルギーが70年代のミニマル・アートへ、そしてスーパー・ リアリズムへと同時並行的に枝別れしてゆく状況の背後にはアメリカ国内の深刻な社会 不安があった。クールな感情は60年代後半から70年代へと広がるアメリカ美術界の 象徴となったと言っていいだろう。その限りにおいて70年代の美術は、その表現の方 向は違っていたとしても共通の芸術感情に支えられてきたといっても過言ではない。彼 らは一様に醒めた目で身のまわりを見直すことに専念しはじめたのだ。」こんな美術界 におけるスーパー・リアリズムと時代背景には、妙にオーディオ界の進歩と似通ったと ころが思い当たる。 ラジオのラウドスピーカーの開発に端を発したダイナミック型スピーカーは、40年 代に入り劇場映画のトーキー化によって大入力・高出力・広帯域再生が求められ、エレ クトロヴォイス、JBLやアルテックなどのランシング系業務用スピーカーと高出力ア ンプの開発が盛んに行われていた。50年代に入ると現存するオーディオメーカーの老 舗であるマランツ、マッキントッシュ、アコースティックリサーチ、タンノイなどが続 々と誕生してくる。科学的には未開の地であり、SPと真空管の時代であった当時は独 創的なアイデアがスピーカー・デザインに盛んに取り入れられていた個性豊かな時代で もあった。オーディオの諸先輩方にはおしかりを受けるかもしれないが、今思えば当時 の音を抽象表現派の「自閉的熱狂」と称したら後の発展を表現するに当たって大変好都合 なのである。そして、60年代後半には半導体理論の確立を経て、トランジスターを使 用したラジオ、テレビなどが次々と商品化され、オーディオにおいてもトランジスター を採用したアンプが登場し大衆化と普及が一段と促進された。アンディー・ウォーホー ルやリキテンシュタインらの情報化社会のマスメディアを題材としたポップアートの登 場には、これらの情報化商品がぜひとも必要であったわけだ。今までは高嶺の花であっ たラジオやテレビがいよいよ庶民のものとなって、手にいれた人々の喜びは現在では想 像するのも難しいのかもしれない。その庶民の感慨が社会賛美のエネルギーとして変質 していったこともうなずけるところだ。さて、オーディオ界では七〇年代に入り、これ らのエネルギーが良い方向で開花してくるのだが、〈彼らは一様に醒めた目で身のまわ りを見直すことに専念しはじめた〉美術界の動向にも似て今まで名器としてうたわれて きたコンポーネントとその設計方針に疑問を感じはじめ、今までの考え方で本当に良い のだろうか、という一種の現状否定から多くのブランドが誕生してきた。ウィルソンオ ーディオ、ティール、カウンターポイント、マークレビンソンなどに代表されるような 、現在でも成功をおさめている数多くのマニュファクチュアラーは皆この時代に発足し ている。スーパー・リアリズムの特徴とされているのは、クールな醒めた感情である。 〈あらゆる既成のものを拒絶する非参加の感情、あるいはニュートラルな地点に身を置 いて一切の価値判断を放棄する姿勢〉こんな、主観を排して現実をそのまま再現すると い機運が、従来の特定個人の主観によって具現化された再生音への問題提起としてオー ディオ界にも新しい潮流が派生してきたのである。それは測定器を通して物事を推し量 ることが未熟であった時代に職人的感覚だけを頼りにして音を作ってきた時代から、〈 機械の視点〉を通して理想と現実の見極めをしながら再生音を考え始めた時代への過渡 期でもあった。この時代に起こった現象が現在の価値判断にも影響を及ぼしているのだ 。 第二章『音のリアリズム』 ハイ・ファイ(Hi−Fi)の語源であるハイ・フィデリティーとは「高忠実度」と いう意味なのだが、一体何に対して忠実であろうとするのか。同様にスーパー・リアリ ズムとは何に対してリアルであろうとするのか。「1983年、埼玉県立近代美術館で 開催された〈現代のリアリズム展〉は興味ある問題を提起した。アメリカの作品と日本 のそれとではかなり大きな差があることである。一言で云えばアメリカのリアリズムが 視覚的であるのに対して、日本のリアリズムは触覚的だということである。その違いの 背景には自然及び文化風土の違いが大きく横たわっていると思う。前者がハードで即物 的であるとすれば、後者はソフトで情緒に包まれている。透明な大気と光を直接につか む前者に対して、後者はモノを雰囲気でくるむ。そのためにモノ自体が見えにくくなる 。前者の突き放した客体化に対する後者の曖昧な客体化もあるが、前者は対象を視覚的 価値に収斂しているのに対して後者は視覚的価値と触覚的価値が入り混じったまま自足 している。つまり、視覚的価値と触覚的価値が未分化のまま混在しているのである。こ れを裏返せば装飾工芸に優れた日本人の天分が見えてくるのである。」もちろんリチャ ード・エステスの作品も紹介されたわけだが、心の中ではリアルであれと思いつつ、実 際に目の前に展開する絵画的な再生音を見せられた時、我々日本人の美意識は果たして 同様な志向をみせていたのであろうか。ここで冒頭のラディカル・リアリズムの批評で あった「あまりにも赤裸々にモノを描くこと自体が卑猥でありポルノ的だという指摘も あった」というような、ある意味では抽象表現派の感情を基礎とした保守的な評価につ ながる一面もあるのではなかろうか。時代によってリアリズム(ハイファイ)の受け入 れられる感性が観衆(聴衆)の中に芽生えていたかどうかが問題となる。音のリアリズ ムをどちらの志向で個人が捉えるかは好みと選択の問題である。そして、それを会話と 試聴から判定していくことが私の仕事でもある。私は長年の習慣から接客の過程におい て、自動的に相手をする人間のリアリズムの志向を察知するよう訓練をしてきた。一つ の再生音を事例として紹介すると必ずリアクションがある。私は〈ユーザーが自分の好 みを表現するに当たって、使用する常套句の分析と分類〉を数多く記憶している。医者 は過去の症例を数多く記憶し経験するからこそ、目の前の患者の病名も判断出来るわけ である。私にとって医者が処方する薬品の知識に相当するものは、数えきれないほど聴 いてきたオーディオコンポーネントの傾向と個性の分析という事になるのである。 第三章『エステスの作風』 「リチャード・エステスは写真を参照しながら描く画家という意味でフォト・リアリ ストである。彼はカメラで写し取った現実の街角の断片をカンバスに合成して描く。し かし、重要なのは写真をスケッチとして使うのであって、写真に写ったイメージをそっ くり描き取るのではない。決して写真のコピーではない。彼は描きたい現場の写真を可 能な限りの角度から撮れる限り撮っておく。プリントされた写真映像を、彼の美学に従 って組み合わせる作業がそこから始まるのだ。その方法論は60年代後半に確立された といわれており、エステスの画面を検証すればわかるように描いた筆触がはっきりと認 知出来る。ペインタリーな要素がわかる。都市景観をモチーフとしているエステスは、 ショーウィンドなどの内部の様子も克明に描写した上で、ガラスに映る周囲の背景も一 緒に捉えている。これを評してローゼンバーグは〈画面にカメラの冷酷な光の秩序を導 入した〉と語っている。ガラスに映る虚像を透過して実像としての店内(ショーウィン ド内)の品物を見ている事になる。実際には私たちの肉眼では、そのどちらかに焦点を 合わせるために虚像と実像をいっぺんに認知して見ているわけではないが、エステスは それを絵画において可能とした。私たちの日常は実像と虚像が入れ子式に組み合わされ た複合体であることはいうまでもない。その複合体は渺茫と広がる無意識の海に漂うホ ログラフィックな幻像であるだろう。エステスにとって光の戯れとは無機的な鏡面反射 と透過のメカニズムであって、それはモネの光の自然詩から如何に遠いものであること か。」実際のエステスの作品の一部を縮小してコピーし、挿絵としてこの紙面に紹介し ようかとも思ったりもした。しかし、言葉で伝えたい事の信憑性がコピーの表現力では 虚しく感じられやめてしまった。機会のある方はご来店の際に、私の手元にあるエステ スの画集をぜひご覧頂きたい。視覚的芸術を言葉で表現することに限界があるように、 聴覚で感じてもらいたい芸術にも同様なことが言えるのである。表現方法としてエステ スとは対照的であり、誰でもが知っている巨匠であるパブロ・ピカソはこんなコメント を残している。 「芸術は真実ではない。とは、我々誰もが知るところである。芸術とは真実を、少な くとも我々に理解すべき真実を、認識させるための虚構である。芸術家は、虚構を真実 として他者に納得させるすべを知らなくてはならない。」 私の職業上来店されるお客様から良くこんな質問をされることがある。「どれが本物 の音で、どれが自然な音なのか。」いかんせん、数百万円もする製品が当たり前のごと く並んでいるので、お客様が求める期待感が高まるのは仕方のないことである。しかし 、私は敢えていつもこのように答えているのだ。「ここに並んでいるもので、本物の演 奏とまったく同一の音を出すもの はありません。オーディオという趣味はすべて虚構 の産物なんです。それらの方法論と手段を吟味選択し、その選択のなかに使い手の個性 を発揮していく。そして、コンポーネントそれぞれの個性を楽しみながら演奏との一体 感、臨場感を追求していく行為、というのが正しい理解ではないでしょうか。」つまり 、本物の生演奏は、その場で聴きながら時間と共に瞬時にして消滅していくもので、〈 本物の音〉という定義が存在しえない事実を安易なセールストークとして用いたくない というのが私の信条である。私もマイクをもって実際に録音した経験があり、ミキシン グコンソールをいじったこともある。プロの録音に携わる人から話を聞いて、録音とい う過程を経た上での再生音楽に限界があることを知っているのである。マイクの位置を 数センチ動かすだけで豹変してしまう音質は、それがすべてではなく商品として選択さ れた一例でしかないということを承知している。「この製品は自然な音がする。」とか 「これは本当の音を出している」のような安易な結論を商品説明の上では用いたくはな いのだ。さて、エステスの作風の中で、オーディオ・コンポーネントを評価する上で共 通点として参考に出来る記述がある。「彼はカメラで写し取った現実の街角の断片をカ ンバスに合成して描く。しかも、エステスの画面を検証すればわかるように描いた筆触 がはっきりと認知出来る。ペインタリーな要素がわかる。」という点である。現実であ る都市景観をカメラの目を通した正確な原形として捉え、その原形にエステスの感性を 交差させて作品を仕上げるということだ。オーディオについても楽音の原形というもの を最低限正確に捉えることが要求されるわけだが、第三者による客観的で視覚的な確認 が出来ないだけに製作者の感性を、そのまま実物の音として認知してしまうユーザーが 現われてしまう危惧がある。よって〈ペインタリーな要素〉という程度で製作者の思い 入れが製品に表現されれば良いのだが、その程度を知るすべはないのである。その意味 で原形とすべき対象をエステスの手法と同じように、最低限の現実的手法をもって確立 しておく必要がある。もしくはオーディオに対するスタンスを前述のように〈虚構の産 物〉という捉え方をすれば誤解を招かないのではないだろうか。「フォト・リアリズム はカメラで捉えた映像を大前提にする。しかし、エステスのリアリズムはゴーイングス やマックリーン、ベクトルのリアリズムよりも或る種のソフトな厚みをもっている。そ う感じられるのは、エステスの仕事がペインタリーな手ざわりに支えられているからだ ろう。こまかいペインタリーなタッチがカメラ的な映像を中和するからであろうか。」 物事の外形を描くデッサンは、忠実な写実性をもっているにこしたことはない。その正 確な輪郭の線をどのようなタッチで描き、また当てはめるべき色彩表現などに作者のセ ンスを発揮していくことで、最低限の被写体の忠実性が保たれることになろう。そんな 意味からエステスのペインタリーな手法を、リアリズムの志向の表現として、オーディ オの評価に当てはめて考える事の面白さが見えてくるのである。 第四章『SFXとレコーデッド・ミュージック』 既に聞き覚えのある方も多いと思うが、SFXとは特殊視覚効果技術のことを指して いる。言葉の意味を説明されるまでもなく、コンピューターグラフィックスやモーショ ンコントロールを駆使した映像表現の一種である。ここになぜSFXを持ち出したかと いうと、スーパー・リアリズムと重なりあう部分があるからだ。「今SFXが大変な人 気を呼んでいる。ハリウッドで作られた映画の歴代ベストテンのうち9本がSFXによ って作られているという。あの七七年製作の名作「スター・ウォーズ」以来の現象だと 聞いたが、この人気の理由は一体何なのだろうか。SFXとは人類がまだ経験したこと のない光景を映像化する技術であるが、先頃SFX技術の第一人者リチャード・エドラ ンドの映画製作過程を取材したドキュメントを見た。我々の手の届かない壮大な宇宙空 間の映像が、実は細かい手仕事の膨大な集積の上に成り立っていることを知って妙な安 堵感を覚えた事がある。宇宙にも手が届くからである。彼らは宇宙船ヘリオスや宇宙基 地の精密な模型作りから始めて、最終的には燃える太陽の映像作りに挑戦し見事に成功 するのだが、その試行錯誤ぶりが感動的であった。気の遠くなるような作業プロセスを 、一つ一つ手作りで進めて行くスタッフの粘り強さにも感服した。彼らの周到で緻密な 仕事ぶりと明るい表情には未来にかける夢の愉しさがあった。SFXの目標は、あり得 るであろう光景を作り出すことにある。既に体験され知り尽くされた光景を再現するの ではなく、未知の体験をあり得るべきものとしてリアルに構築する作業である。従って 想像に支えられる部分が極めて多いのだが、本当らしさ、本物らしさをもとめるエドラ ンドの厳しい仕事師ぶりに興味をひかれた。スタッフに幾度でもやり直しを求める彼の 苦渋に満ちた横顔がクローズ・アップれた時にはどうなるのかと心配だったが、最終的 に満足する結果が出たときの開放された喜びの表情が爽やかだった。SFXのポイント は急角度に深まる無限のパースペクティブにある。宇宙空間の一切のものはパースペク ティブの場で捉えられる。むしろ強度の遠近感そのものが主役のような感じさえする。 ビッグバンによって無限に広がり続ける宇宙空間の中を急カーブを描いて超高速で飛翔 するヘリオスの動きを、あり得るべき光景として映像化することがSFXの醍醐味だと 思う。実際にはコンピューターによるパースペクティブのシミュレーションなのだが、 その根底にある志向はロマンティシズムであり、方法論はリアリズムに他ならない。」 視覚に訴える手段として、SFXとスーパー・リアリズムにはこんな共通項が存在する ようだ。前述のピカソのコメントを引用すれば、まさにこれらの作業過程と結果は芸術 的評価の範疇に含めても異を唱えるひとは少ないと思う。それでは、聴覚に訴えるオー ディオとレコーデッド・ミュージックの場合はどうなのだろうか。映画の場合には一秒 間にわずか24コマのフィルムが時間を捉え、動きという流れを形成している。現在の デジタルオーディオでは、一秒間を四万四千分の一に分割して捉えても、まだ不満の声 がある。静止画比較においての視覚判定能力は大層素晴らしいものがあるが、動画にな ってしまうと目の残像効果によって動きとして認知されてしまう。ジョン・ケージの「 沈黙の音楽」のような偶然性音楽は例外とするが、音楽に静止と動作の種別はなく、時 間の流れの中にこそ音楽は存在しているのである。オーディオを通して聴くために必要 な音源は、すべてレコーデッド・ミュージックである。過去に記憶され時空を超えて再 生される音楽に情熱と芸術性を追求しているのであるが、生の演奏との比較関係でその 正当性を評価されない風潮は未だに続いていると思う。前述の通り生演奏に接した時の 興奮は、演奏者と聴衆が同じ時間と空間を共有している事が大きな要因である。そして 、一度レコーディングという過程を経ると、録音テクニック、機材の質、熟練度、そし てセンスという様々な付帯条件が加わってくる。しかし、再生音を聴こうとする聴衆は 、そうした録音過程における追加項目を認めようとせずに、ひたすら演奏そのもの、源 音(録音前の演奏の音質)であろうと信じ期待してしまう傾向がある。 つまり、聴衆の求めるところは演奏家その人自身のパフォーマンスであり、再生音を 聴きながらイメージするのは演奏家の風貌と容姿であって、ミキシングコンソールを取 り囲むミキシング・エンジニアやプロデューサーが仕事に取り組む真剣な表情ではない のである。レコーデッド・ミュージックの宿命として〈録音過程における付帯条件〉な くして再生音を聴くことが不可能な以上は、それを含めて評価されなければいけないと 思う。ここでエステスの作風で述べられている、「カメラという機械の目を通して原形 を維持する」スーパー・リアリズムの原点と照らし合わせて考えて見ると、カメラの目 を通して見た光というのは録音前のマイクロフォンが受け取っている音といえる。そし て、「筆触がはっきりと認知出来るペインタリーな要素」というのがレコーディング( マスタリング)エンジニアの腕前という事になろうか。録音のクォリティーを考えれば レコーディング・スタジオで収録したほうが、楽音そのものを鮮明に捉えることが容易 になる事は誰でも想像に難しくない。しかし、スタジオではホール・エコーは得られな いので人工的な余韻と響きを、さも自然なホール・エコーのように付加しなければなら ない。つまり、実際にはありえない耳に心地良い響きを、あたかも生の演奏の雰囲気の ごとく追加するのである。これは視覚的な効果でいえば、「SFXの目標は、あり得る であろう光景を作り出すことにある。」という行為と同じではなかろうか。こんな背景 描写からレコーデッド・ミュージックを、演奏者のパフォーマンスとレコーディング・ エンジニアの感性、両者のパッケージ商品であるという認識を確認しておきたい。さて 、いよいよ私の仕事の範疇に話しを進めていきたい。オーディオ・コンポーネントに求 める真実と虚構を、どの様に解釈したら良いのだろうか。スーパー・リアリズムの根底 にある思想。私が敬愛するリチャード・エステスの描く世界の素晴らしさ。SFXとい う手段によって未だ経験したことのない世界を見せてくれる映画作りのプロフェッショ ナル。そして、聴覚に対してのスーパー・リアリズムを実現してきたレコーディング・ エンジニア。このどれもがピカソが残してくれた一言で、その存在感を表現しえるので はないだろうか。「芸術とは真実を、少なくとも我々に理解すべき真実を、認識させる ための虚構である。芸術家は、虚構を真実として他者に納得させるすべを知らなくては ならない。」ということは、コンポーネントの製作者とオーディオを通して再生芸術を 楽しもうとする使い手にも、同様な解釈のもとに音楽を楽しむ事はできないものだろう か。結論として、こんな一言を申し上げたい。「オーディオとは音のSFXである。」 【完】 |
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