第十二話 「コニサーの寓話」





 昭和40年代初頭からのオーディオブームにのり、急速に発展したオーディオ業界が
翳りを見せはじめ、ついには「構造不況業種」なとどいうレッテルを貼られてしまった
の昭和56年であったろうか。成熟の時代を迎え「作れば売れるという時代」が終わり
を告げたのである。その翌年、あのステレオサウンド社から一冊の別冊が発売された。
『Sound Connoisseur(コサニー)』と題されたその表紙には、トー
レンスTD226の右側にオルトフォンのSPUゴールドを装着したSME3012ゴ
ールドがブラックディスクをトレーシングしているクローズアップが描かれている。私
の記憶が正しければ、同誌が第110号を数えようとしている現在まで同名の別冊は刊
行されていないはずである。この業界の一大転機の時代にあって、この企画による別冊
が訴えかけるものは12年の歳月を経た現在においてこそ、製造、輸入販売、小売販売
、雑誌媒体、そしてユーザーに対しても、その趣味の奥深さを訴え感慨を新たにさせて
くれるものがある。巻頭の記事は『コニサー的立場』というタイトルで始まっている。

 「コニサーと発音するのは英語のConnoisseurである。辞書をひもとくと
、〈目きき、通、鑑定人、識者〉という訳が出ている。18世紀はじめにフランス語か
ら入ってきた。今のフランス語では、Connaisseurと綴るが当時は今の英語
の綴りと同じだった。その国語の記録に熱心なイギリス人のおかげで、英語の中で最も
初期に使われたのが1714年であることもわかっている。(中略)イギリスの文化に
とって、この時代は極めて特異な時代であった、と言わなければならないであろう。芸
術が極めて多産であったから、批評が栄えた。Critiqueというフランス語を借
りてきたのが1710年であった。すでに一世紀も前からCriticismという言
葉があったのにである。批評家は批評新聞を作り、それに拠ったが、批評紙のなかには
TheSpectatorのように後世にも良く知られているものがあり、批評家の社
会的地位を確立した人としてはサミュエル・ジョンソンがある。みすず書房で翻訳本が
刊行中の『サミュエル・ジョンソン伝』を書いた同時代人のジェームズ・ボズウェルは
、この伝記によって世界で最も優れた伝記作家として評価されている。この伝記の17
63年7月1日の項で、ボズウェルはジョンソンにThe Connoisseurと
いう批評紙についての意見を聞いている。ジョンソンはまだまだ・・・、というような
意見だったが、ボズウェル自身はそうは思わない、というようなことを書いている。こ
のThe Connoisseurを発行していたのはMr.Townという匿名だっ
たがジョージ・コールマンという不思議な人物だった。イタリアのフィレンツェに生ま
れたイギリス人で、母親が姉妹の夫との間に作った子供という運命を生きた人であった
という。この実の父親がイングランドの古都バスの伯爵だったため、父の死後はこの伯
爵の庇護の下でオックスフォード大学に入り、その後の文学上の、あるいは演劇上の活
動を行うのであるが、彼はこの大学在学中にThe Connoisseurを出した
のだ。1754年の1月31日から56年の9月30日まで140号を出したというか
ら、週刊だったのだろうか? はからずもConnoisseurという言葉を探って
いくうちに、それが18世紀の中葉に『サウンド・コニサー』の先輩のようなThe 
Connoisseurという批評新聞と出あってしまった。The Connois
seurという名をつけたのは〈自分たちはわかっているんだよ〉という意味でなのか
、〈わかっている人達だけのための新聞ですよ〉という意味でなのか・・・。たぶん前
者であろう。大学生コールマンには自負があっただろうし、そうでなければ新聞など出
すはずがない。Critique(批評)とは一歩誤れば両刃の剣のようなもので、自分
も傷つくのである。自分がCritiqueをするのにふさわしい資質を備えているか
を反問しつつでなければ成り立たない。そのあたりを考え考え、尚かつ敢えてCrit
iqueをしているなら、その人はConnoisseurと呼ばれてもいいのであろ
う。(中略)

 さて、1714年から数えて268年め、The Connoisseurという先
輩誌の発刊から228年めに、この日本で『サウンドコニサー』が刊行される。実に、
6931点のオーディオ製品が『ステレオガイド』第16巻に掲載されているという、
日本のオーディオ状況はそのまま一つの時代の成熟を表現していないだろうか?693
1点から、自分のための抜きさしならない数点を選びとるという行為は、多くの場合極
めて安易に行われている、と思う。それはそれでよいのだが、ひとたびあの音を聴いて
しまった人達、オーディオという魔に魅せられてしまった人達は違う。(中略)従って
〈選びとる〉行為もそういう人達にとっては極めて個人的であってクリテリオン(評価
基準)も、その人の外にではなく、その人の内部にある。共有しているのは、この様に
成熟した時代に生きているということ。そういう人達はConnoisseurと呼ん
でいいのだろうと思う。『サウンドコニサー』は現代のConnoisseurたちが
、おたがいにその時代についての予感を伝えあう場になっていくだろう。一つ一つのコ
ンポを選びとって聴くという行為には、ひとりのConnoisseurの時代に対す
る関わり方のすべてが集約されていないだろうか?」(以上は対象雑誌の本文より引用
)評論家の起源が、18世紀初頭の芸術批評から発祥したものであるということには非
常に意味深いものがある。そして、この別冊のオーディオ製品に対する編集内容こそ称
賛すべきも のがあると思う。当時の話題性のあるものを五点とらえて、それぞれ 20
ぺージに渡る詳細な紹介記事となっているのである。その製品が生まれてきた背景とス
トーリーがあってこそ、その製品の向う側に製作者の人間像が浮かび上がってこようと
いうものだ。出来上がってしまった製品に対する評価、それはそれとして良いのだが製
作過程から始まる物語こそ、作品に対する信頼性を高める最上のものではないだろうか
。前述の本文中にあるように、「クリテリオン(評価基準)も、その人の外にではなく
その人の内部にある」という事実を考えると、活字によっては音を伝える事が出来ない
以上、作品の背景描写なくして作者の夢とロマンを使い手に伝えることは出来ないので
はないだろうか。その意味合いからも解説付き豪華カタログ集的な編集内容に偏らない
、この20ページに渡る作品を主人公とした物語には大変〈魅力的な雑誌〉としての存
在意義が感じられる。音が出る雑誌がありえない以上は、作品の魅力を製作者の情熱を
代弁することによって伝えていくのは、ユーザーから見ての商品選択において納得出来
る方法の一つではないだろうか。

 つまり、作品を分析評価するにあたって、メーカーから与えられたカタログと同じ内
容を書き直すだけではなく、筆者の自説持論がメーカーの主張する論理とぶつかりあう
ところに、オーディオ誌の独立したコニサー的立場を主張する醍醐味があると思う。そ
の拮抗する両者の理論双方を読み取ることによって、ユーザー(読者)がどちらかを支
持し金を払って買物をし、その製品の選択によって自己主張を行える趣味としての基礎
が出来上がると思う。定番のごとく、同じ組合せ同じブランドのコンポーネントを薦め
て販売しておられる販売店が見受けられるが、販売店が新興宗教の教祖になって一様な
パターンを推奨していくのは如何なものだろうか。人間の感性には人の数だけの種類が
はあるわけで、その個性を認めた上で「その人の内部」から求められる声に応じてコン
ポーントを選んでいけば同一のシステムが販売されること自体が不自然ではないか。前
述の本文で中略してしまった一節にこの様なくだりがある。「それにしてもConno
isseurは使い方のむずかしい言葉だ。もちろん、私はConnoisseurで
ある、とはいうべきではないだろうし、あなたはConnoisseurですね、とい
われたら、そんなことはないと遠慮すべきであろう。すくなくともそんな風にいわれた
時に、むずがゆい思いをしていることを相手に知らせるべきだろう。」これは、他人か
ら称される時に引用されるべき言葉であって、自らが名乗りをあげるべきではないとい
う例えではなかろうか。物を作る人間が己の才能を表現する。物を売る側の人間が自分
をコニサーと称する。また、物を書く立場の人間が自らの理論の正当性をこの言葉に求
める。これらの共通する反省と教訓は、オーディオを買い求め音楽を楽しむのは誰であ
るか、というユーザーの存在を軽視した方法論がまかり通ってしまっていることにある
と思う。つまり、オーディオを作る、知らせる、売る、という各業態の目的は最終的に
利益の一致を見るわけだが、それはあくまでも自分の職業範囲内におけるループの内側
での結論に終始してしまうことに盲点がある。ここに、オーディオジャーナリズムの責
務を果たそうとする今一つの勢力がある。季刊誌『サウンドステージ』第20号の「音
楽を愛する友へ」という巻頭言の中で編集長である船木文宏氏は、この様な言葉で自ら
の立場を表現しておられる。「音楽作品が美術や文学と同じ芸術であり、録音も近年は
芸術作品としてとらえられております。しかし、オーディオは依然として単なる音マニ
アの遊びと思われています。録音作品が芸術なら、それを再生するオーディオが何でか
くも低い評価しか得られないのでしょうか。」この言葉が、先程の反省と教訓を必要と
している結果であり現実である。それを理解され、更に問題提起を行うところに『サウ
ンドステージ』の存在感が感じられる。それは、オーディオを対象とした単なる広告宣
伝による情報伝達だけではなく、読者に考える事を要求する誌面作りがあると思うから
だ。そのような活字を通しての訴えかけは、すなわち何を意味しているか。これは、読
者一人一人をオーディオと音楽のConnoisseurに昇華させんための呼びかけ
であるとお見受けする。製造者(輸入商社)とジャーナリズム、販売する立場とユーザ
ーがそれぞれに互いをコニサーと称して尊敬しあい、互いを磨きあう場所が日本に一つ
くらいはあって欲しいと思う。願わくば、立場を異にするこの四者が交叉する拠点とし
て、私のこのフロアーが認められればこれほどうれしいことはない。万が一、将来ステ
レオサウンド誌が再び『Sound Connoisseur』という名のもとに別冊
を刊行された時には、この『コニサーの寓話』を思い出して頂ければ、その役目を果た
すことが出来たと思いたいのである。
                                    【完】


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