第十話 「天使(“A"ngel)の謀りごとと悪魔(“D"evil)の真実」





 紅葉も広がりを見せてはいるが寒さはさほど厳しくはならない晩秋の一日、夫婦の話
題と言えば子供の事が一番多い休日の夕方であった。普段は新聞の記事を見て会話を交
わすことなどめったにないのだが、「ねェ、これどういうこと。」といって家内が押し
出した新聞(読売)の見出しにはこう書いてあった。〈LPはCDよりも音が良い〉内
心、またかと思った。記憶によると内容は次のような主旨であった。「芸能山城組を主
宰する大橋力氏が、公的な研究機関の助けを借りて次のような実験を行った。同じ録音
の曲をLPとCDに収録し予備知識を与えない数十人の一般人に聴かせ、〈なめらか〉
とか〈かたい〉のような単語表現の選択を行うアンケートによって両者を比較した。そ
の結果90%以上の人が〈聴きやすい〉〈疲れない〉などの単語に象徴されるような良
い音としての支持をLPに与えた。これは、CDは技術的な問題から22キロHz以上
の音はカットされており、LPは100キロHz位までの高調波が含まれており自然の
音に近い。その結論としてLPの方が音が良いのである。」と言う内容であった。見出
しを読んだだけで推測し内容とまったく同じ程度のもので、オーディオ的知識と経験の
ない大勢の読者に提供する報道として、果たしてこれで良いのだろうかという疑問と不
安が浮かんできた。オーディオを趣味としたことが少しでもある人は経験があると思う
が、同じアナログ・プレーヤーでもトーレンスやリンの様にフローティング構造のター
ンターブルと、マイクロの様に高剛性高質量でリジットに作られたものとでは大変な音
質の違いがある。細かく言えば、カートリッジ、ターンテーブル・シート、トーンアー
ム、ヘッドシェル、スタビライザー、ピックアップケーブル、など数えればきりがない
ほどに音質を変える要素があるのである。かたや、CDプレーヤーにおいてもどのメー
カーの物を使うかによって音も違ってくる。これもマニアライクに考えればD/Aコン
バーターやデジタルケーブルの種類などで音が変わってくる。アナログを代表するもの
は何を使ったのか、デジタルを代表するものは何を使ったかの記載はなかった。(もっ
とも、記事の内容からすると具体的製品名はあげられそうにないと思ったが。)中には
アナログ的な音を出すCDもあり、デジタルへの方向性を思わせるアナログプレーヤー
もあるのである。つまり、この様なアナログプレーヤーとCDプレーヤーの二つの集合
体の中で、個々の個性が認められている以上は、代表を一つにしぼり込むこと自体に無
理があるのである。もっと簡単にいえば、土俵が違う異種格闘技のようなものだ。

 人様の努力と情熱に異論を唱えても何も生まれてこないので、オーディオを職業とし
ている私なりの仮説をもとに、LPとCDの音質差はどの様な要素から発生するのかを
推論してみた。まず、再生周波数特性は記事の通りLPの方が広いことを認める。彼の
昔、4チャンネルステレオが流行した当時、日本ビクターが提唱したCD4という方式
は48キロHzにリア・チャンネルのパイロット信号を記録して、デコーダーで復調す
ることにより後方から音を出すことを実現していた。また、国内でもコロンビア等の数
社から出ているテストLPでは色々な正弦波を各周波数でカッティングしたもので、上
限では50キロHzが刻まれている。そして、アメリカでダイレクト・カッティングを
最初に行い、高音質のLPを製作していたシェフィールド・ラボではLPの有する高域
特性は75キロHzに及んでいることを明言した。CDはサンプリング周波数を44.
1キロHzに設定しているため、折返しノイズの発生を防止する意味合いからも、22
キロHzを上限として急俊なフィルターを必要としている。これについてはスロー・ロ
ールオフのデジタルフィルターを使って、パイオニアのレガートリンクに代表されるよ
うな見かけ上の高域特性を作り出しているものは、この論点には一致しない一種の演出
効果であるので検討の対象とはしない。しかし、CDのダイナミックレンジはおおよそ
95dB以上は確保されており、いくら高域特性の良いLPでも信号のレベルとして極小
になってしまう超高域はノイズにマスクされてしまう領域が多いのではないか。と言う
のが、先陣を切っての反論の狼煙である。さて、次に図1をご覧頂きたい。ピックアッ
プ・カートリッジの発電方式が、MMであってもMCであっても変わることのない原理
としてステレオLPの45・45方式がある。図が示すように音溝のLチャンネルの壁
が矢印の方向へ変位し、Rチャンネルも同様に変位する。このようにに言葉で表現する
と簡単に聞こえるが、実際にはスタイラスチップ(針先の音溝の中をトレースする先端
部分)が音溝の変化によって上下左右に動かされ、カンチレバーに与える動きは図の様
に(仮定のカンチレバー中心点を中心として)極めて円運動に近くなるという事実を知
る人は少ない。カンチレバー上部には、左右とも四五度の角度に発電機構の磁束の流れ
が発生しており、この磁束に直交する動きに対して発電を行う仕組みになっている。図
1の中の太い矢印で示されたL、Rチャンネルの発電方向のベクトルという表現がこれ
を意味している。



 完全無欠の正確な発電を要求するときに、L、Rの信号が一本の音溝に入っていると いう事実、またL、Rの信号が一本のカンチレバーと一対の磁気回路によって取り出さ れるという点に、LPの最大にして最高の弱点が存在する。つまり、片方の磁気回路の 発する磁束を直交する際に、その片チャンネルの信号を発電しピックアップするが、カ ンチレバーの動きのベクトルがその磁束と直交しない時の動きはどうなるのか。図中で 太い矢印と平行にならない動きの時である。そうです、これをオーディオ専門用語で言 えば〈クロストーク〉と言う表現になる。私の記憶が正しければ、LPのクロストーク は1キロHzにおいてはマイナス30デシベル前後とされている。周波数が低くなった り高くなったりするとクロストークは更に悪化してしまう。このクロストークを簡単に 説明すると歌手が右側に定位して歌っていると、その声の約31分の1が左側から漏れ てくるということである。左側でピアノの単音をポーンと弾くと、まったく同じ音がエ コーの如く右チャンネルからも出ているんだということだ。これこそ、LPが持つ天然 の余韻の如く、我々は知らず知らずのうちに影のように付きまとう、LとR双方のクロ ストークを〈なめらかさ〉〈やわらかさ〉〈雰囲気の良い音〉して都合の良い解釈をし ていたのではないだろうか。それでは、CDのクロストークはどの位あるかということ だが、1Hzから22キロHzの全帯域に渡ってマイナス60dBという基本性能が約束 されている。これはマイナス1000分の1で、LPと同じ条件で片方から漏れる音を 聴こうとすれば、漏れた音を更に約30倍以上増幅しなければいけないという事になる 。これまでに見かけたCD否定論とLP肯定論のほとんど全てが、周波数特性だけを見 て論じていることに異議を申し立てるものである。従って、私の仮説を立証させるため には一本の音溝に1チャンネル分の信号だけを刻み、更に磁気回路が1チャンネルしか ないカートリッジを使い、それを2台のプレーヤーで完全にシンクロさせることによっ てステレオ再生をすれば良いわけである。また、CDのアナログ出力に人為的な「可変 クロストーク発生装置」をつないで、LPとの比較を行えばよろしい。さて、前述の表 現でカンチレバーが極めて円運動に近い動きをするという一節があったが、レコードの 音溝が実際には音声信号の変化に伴ってどの様な動きをするかを上図(1)(2)(3 )に示した。(1)は仮定としてのある状態を、中心線を引くことによって表現したも のである。(2)はLとRそれぞれに同相、同レベルの逆相信号を入力した場合に音溝 はカッティング針によってどう掘られるかを示している。LPは決まり事として、左右 逆相に記録されている。理由は簡単で、同相の場合は左右のチャンネルで大きい振幅の 信号があった時にピークマージンが得られないためだ。ドラムやベースといったステレ オのセンターに定位する楽器が大きな音で記録されなければいけない時に、正相だと音 溝が無くなってしまう程の単純な上下運動になってしまうのである。ところが、(3) のように逆相でカッティングするということは言い替えれば、一つの楽器を二つのマイ クで録音したときに、個々のマイクに逆相で音が入ることはありえず、相似形の音溝が 図のようにきれいに左右に移動するだけとなるのである。  なぜ、このような基本原理を解説するかというと、クロストークのもう一つの発生要 因と、トーンアームとカートリッジの関係をご理解頂きたいからである。LPレコード のマイクログループと呼ばれる音溝の幅は数十ミクロンと大変細い。その溝の中にある 数10キロHzの音声信号というものは、更にコンマ何ミクロンという起伏によって記 録されている。さて、そこで今一度皆様のプレーヤー上で回転する黒い円盤を見つめて 頂きたい。反りによって上下に、センタースピンドルの穴の偏心によって左右の水平方 向へと、カートリッジ自体が肉眼で確認できるほどの不要な動きをしているのがわかる はずである。ミクロンオーダーの精度でカッティングされたはずのLPが、商品化され た姿というのは実に情けないものである。カートリッジとトーンアームにも質量がある 以上は慣性が働き、この極低周波数の動きによって変調を受けるのである。当然の事な がら、問題の〈クロストーク〉にも大きな影響力を有するようになる。ここで、トーン アームの性能が問われることになるのである。この性能を追究して行くことで求められ る究極の状態とは何か。言葉で表現するといたって簡単だ。図 から で示してある中 心線上で盤面から一定の高さを維持し、盤上にいかなる変化が起こっても、その位置を 堅持することである。つまり、カートリッジを安定してその定点に保持することが要求 される。残念ながらこの要求に対して既存の各社が行った方法としては、カートリッジ を含むアーム部全体の軽質量化とアーム軸受部の初動感度を向上させること。同時にプ レーヤーシステムの機械的共振をどう駆除するかという発想が大変多かった。そして、 LPの再生について、既存のこのようなアプローチと全く違う観点から、その再生手段 を確立した技術者が現れましたのである。既にご存じの方も多いと思うが、あのΣ30 00を開発した寺垣武氏がその人である。氏の考え方で、私がこれまでに述べた幾多の 事と最も共通する観点は「LPとは(物理的にみると)何と、いい加減なものだろうか 」という発想の原点である。そして、新たにΣ5000と名を変え、正式に発売される 見込が立ったことにより、堂々とご紹介できるようになったことを大変うれしく思うの である。(この内容を文章でご紹介することは十分可能なのだが、大変なページ数とな り今回は断念致した。)話しを戻すが、寺垣氏は冒頭で登場した大橋力氏とも近々のう ちにお会いになるとの事であった。その出会いによっても、これらの議論に面白い展開 があるものと期待している。オーディオを販売することを職業としているだけに、色々 なレベルのお客様から様々なご質問を頂くことがあり、また逆に教えて頂くことも大変 に多い。この仕事では「音楽性がある」ということは、最良にして最悪の、そして最高 のセールストークなのである。技術的な背景と知識を正確に駆使することから始まって 、製品の選択や使いこなしのノウハウが初めて提供できるものと考える。「音楽性」と いう悟りを開いて物事の到達点を見極めたような意味不明の言葉で、趣味人の愛好する 道具を評価するのは如何なものであろうか。冒頭の新聞記事の中には「音楽性」という 表現は無かったものの、天使「A」の謀りごとの術中に落ち、悪魔「D」の語る真実に 耳を貸さなかった感がある。AとDの結論が逆であったら果たして記事になったであろ うか。この記事の結びとして「、だから、こうしてもらいたい」という一節が欲しかっ た。この大橋力氏という方は、ある人からきくと大変立派な方であるという。しかし、 自説の結論に責任を感じて、良いと主張するLPを生産販売することまでは、失礼なが ら考えておられないと思うのだ。消え去ろうとする物に送る賛辞はわかるのだが、残さ れた物に対して憂いる気持ちだけでは何も生まれてこない。人間の心の中には天使「A 」と悪魔「D」の両方が棲んでいるという。このAとDの葛藤には無理に結論を出さず 、時には天使、時には悪魔のように、個人の趣味性と気分によって選べば良いだけのこ となのである。                                     【完】

 目次へ