第九話 「鸚鵡貝の誘惑」
あれは・・・、忘れもしない平成5年9月11日ステレオサウンド誌の第108号の表 紙を見た瞬間に背筋に衝撃が走った。思わず「遂に出たか!」と呻き声を漏らしてしま った。これでも職業上の情報収集能力においては、各方面に張り巡らしたアンテナがあ り、内外を問わず先行した情報が耳に入って来るものだが、これは正に青天の霹靂とい うべき出会いであった。噂には聞いていたものの、この曲線といい、色合いといい、ク ローズアップされた姿を見たのは初めてであった。ノーチラス(Nautilas)というネー ミングにも心を奪われてしまった。その場で電話を取って輸入元へコンタクトしようと 思ったが、あいにくの土曜日。この時ほど月曜日が待ち遠しかったことはない。そして 、休み開けの月曜日、ほとんど出社と同時にB&W社の新規輸入販売会社となった日本 マランツの営業所長に電話を入れたのである。「あれは純然たるプロトモデルのために 、評論家先生にお聴き頂いた後に本国へ返送しなくてはならないんですよ。既に梱包し て相模原の本社へ送ってしまいましたのですが。」と、何とも残念無念の答えが返って きた。そこで諦めてなるものかと、「では、相模原まで行けば聴かせてくれるのか。」 と追いすがる思いでたたみかけて見ると、「担当者を捕まえてからご返事しましょう。 」との好感触の返事が返ってきた。何せ価格も発売時期も一切が不明であり、小売店の レベルでは商売の足しになるところは何ひとつ無いのだが、聴きたくなるといてもたっ てもいられないのが私の悪癖である。又、逆にメーカーとしても直ぐに商売にならない ものを聴かせるために、我々を呼ぶのも心苦しいところがあってお声がかからなかった ようだ。その待ち遠しい回答が来るまでに色々と引き出した情報によると、このスピー カーは完全な4ウェイ・マルチアンプ仕様となっており、しかも、デジタルのチャンネ ルディバイダーを使用して帯域分割を行い、何とパワーアンプ四台で駆動することが標 準仕様となっているようだ。従って、おいそれと販売店に持ち込んで簡単に音を出すわ けには行かないということであった。 この要求に応えて、日本マランツのラボラトリーがデジタル4ウェイ・チャンネルデ ィバイダーを特注で製作し、日本での音出しに至ったということである。今まで、音響 工学的にスピーカーから放出される音波が、エンクロージャーの内側と外側へどのよう に拡がっていくか、という解説をこの随筆の中でもしている矢先の出現である。これま での結論を集約する形として、日本にあるうちにどうしても聴いておかなくてはいけな いと、願望が切実な欲求へと変わっていった。そして、数日後に一本の電話が入ってき た。「突然で申し訳ないのですが、来週の月曜日でしたら何とか・・・。」遂に、平成5 年10月4日が出会いの日となった。東名高速横浜インターを出て、八王子方面に約5 km。相模原に本拠を構える日本マランツの試聴室に夕方遅く駆けつけることになった 。担当営業所の所長が出迎えてくれ、折角のおもてなしも早々にして試聴室へ足を運ぶ ことにした。写真で見た憧れの物に、直に指で触れてみる時の感触は大変良く記憶に残 るものだ。F1で有名なウィリアムズの車体を製造する工場で作られるというエンクロ ージャーは、正に高度な塗装技術の車体と同じくスポーツカーの感触である。日本マラ ンツのスピーカープロジェクトを担当する澤田龍一氏が解説のために同席して下さった 。現在ノーチラスは世界中に2セット存在しており、1セットはB&W社の社長の自宅 にあり1セットは目の前の実物だけである。まだ未確認情報であるが、どうやらヨーロ ッパの市場では、アナログのチャンネルディバイダーを付属させる形で発売に踏み切り たいという意向があるようだ。しかし、日本マランツとしては、このスピーカーの設計原理からしてアナログのディ バイダーを使用することによって発生する如何なる位相の乱れもあってはならないとい う理念から、オランダのフィリップス社にソフトの開発を要請し、共同開発でデジタル チャンネルディバイダーを完成させるまでは発売するつもりはないということであった 。スピーカー自体が機械的なリニアフェイズを実現しており、帯域別エンクロージャー の開発に成功しているがゆえに、大変理にかなった製品作りの姿勢として評価したい。 実際の試聴に当たっては前述の特注デジタル・チャンネルディバイダーが用意されてい た。同社のオーディオコンピューターを彷彿とさせる外観と大きさであり、一台につき 2ウェイしか処理できないので二台を同時使用することになる。これにCDトランスポ ートからデジタル信号を送りこみ、帯域分割されたデジタル信号が取り出されD/Aコ ンバーターを内蔵するアンプ4台に入力されるという大がかりなシステムだ。次に注目 されるのが、図1に示したようなノーチラス独特のクロス(90度)セッティングであ る。ご覧の通りスピーカーの主軸が直交するように配置され、直交した直線の延長線に 囲まれ拡大していく三角地帯がリスニングエリアとなる。ただし、直交するポイントで 聴いても大きなヘッドフォンを聴かされているようで好ましくはなかった。従って、そ の交点よりも約二メートル位離れたところに椅子を移動して試聴を開始した。過去にあ らゆるスピーカーで数えきれない回数を再生してきた小澤征爾指揮、ボストン交響楽団 による87年の録音でマーラーの交響曲第一番2楽章をかけた。「アレッ、物足りない 音量が・・・・。」と澤田氏に問いかけると次のような答えがあった。「現在のところは、 試作のデジタル・チャンネルディバイダーから直接D/Aコンバーター内臓アンプへ接 続し、各帯域のバランスを一度取り終わっていて個々のアンプのレベルも固定している 。本当はアナログ化してからマスターボリュームを製作すれば良いのでしょうが、近い 将来には研究のために分解してしまうので敢えて作りませんでした。」なるほど、と再 度スタートスイッチを押して試聴を続けていった。試聴室は相当デッドに作られている ため反射波の心配はない。過去の経験から、この様な部屋の場合は総じて音像が細くな り楽器と楽器の隙間ができてしまい貧弱になってしまうことがあるが、ノーチラスでは その心配は無用であった。セッティングの効果もあるのだろうが、オーケストラのステ ージ上に展開する楽器の群れは実に充実しており、微妙なハーモニーの空間連動が感じ られる。 次に、私の定番としている女性ヴォーカル(大貫妙子のピュア・アコースティック) を聴いてみた。バックには小編成の弦楽とクラリネットなどが配された、とてもアコー スティックな雰囲気の録音である。この瞬間「スピーカーが消える。」という表現が頭 の中で思い起こされ、「遂に証明されたぞ!」と内心ただごとではない驚きを禁じえな かった。マランツの澤田氏がこの状態をうまく表現していた。「スピーカーの真中にフ ォログラフが出来るんです。その証拠にスピーカーの真中を歩いて向う側に行ってみて 下さい。」あくまでも虚像であるが、その空間には楽器と声が立体映像のように浮かび 上がっているのである。つまり、正面から見ての演奏状態を再生するのが普通だが、ス ピーカーの背後に回ると演奏を後から聴いている状態で定位感や楽器の質感は何ら変化 しないのだ。そればかりか、360度あらゆる方向から聴いても、演奏家の彫刻像を歩 いて周回しながら眺めるのと同じ感覚を催してくるのである。図1にイメージ的に表現 した完全なる球面波の再生が頭に浮かび、なるほどと感激しながら大貫妙子の背中を音 で感じるという生まれて初めての経験をしてしまった。「どうです、演奏家の体をすり 抜けていった感じは・・・・。」と、澤田氏は微笑みながら結論を与えてくれた。私も、理 屈では球面波の自然さは楽器のそれと一致するものと言い続けてきたが、これでその理 論を実現するとこうなるという貴重な体験をすることが出来た。 後に回ってノーチラスを観察すると、後方に伸びる三本の角の先端に穴があいてパイ プ状になっているのを見つけた。「ノーチラスの各ユニットは、その外周と同じ太さの パイプがユニットの直後でユニットをくわえ込む形でホールドしていて、それから幾何 学係数によって計算されたカーブによって細く伸びているんですよ。その過程において 音波を消滅させる効果を発揮しているので、総ての管の全長の3分の1ほど吸音材が充 填されていますが後の穴はエアー抜きというところです。」でも、ウーファーの管は3 mあると聞きましたが穴が無いですね、と問いかけると。「実は台座と接するケーブル の引き出し口に大きめの穴があって、ウーファー部はそこから抜いてるんですよ。」な るほど。「ノーチラスは無限大バッフルをシミュレートして設計されており、言い替え ればユニットのダイヤフラムは、何の抵抗も受けずに空間に浮いているような音響的状 態を作り出しているんです。」そうか、無限大バッフルということは、「それじゃ、簡 単に言うと振動板の背圧、ユニットの裏面に放射される音は折り返してかえって来ない ということですか。」ときくと、その通りだという答え。総ての振動板は、アルミニウ ムが基本素材になっているということだ。「ウーファーの管は3mあるという事は、共 振周波数は113Hzですよね。その低域より下の方も出してますね。」と問いかける と。「そうです、この管の共振周波数は30Hz以下です。約120Hzの4分の1波 長をとっています。」ははァ、なるほど。30Hzの波長の半分の半分、つまり音圧が プラスとマイナスの両方で最も高くなる長さで管の終端に達して、音圧を空気中に一気 に放出してしまうということか。そう言うと、そうそうと澤田氏がうなずいておられた 。「各ユニットのクロスオーバー周波数は」と基本的質問。「まだ試験的ですが、下か ら180Hz、900Hz、3500Hzで、一部を除いては12dB/octで切ら れています。もちろん位相回転はありませんよ。」なるほど予想はしていたものの、驚 いたのはトゥイーターのクロスが3.5キロHzと大変低いことだ。それについての技 術的回答はなかったが、クロス(90度)セッティングもこのクロスオーバーも、B& W社からは実験の結果そうしたというコメントしかなかったそうである。 しかし、大変残念ながらB&W社はデジタル・ネットワークを作り出す技術力までは なかった。アナログ・ディバイダーで発売するかもしれないという方針には、これほど のアイデアを形にしていったこだわりと執念が完璧なものに仕上がらずに心残りが感じ られる。しかし、日本においては世界のフィリップスとタイアップしてデジタルでの完 成を目指す、ということなので時間はかかれども期待したいところである。予定してい た時間を一時間近くオーバーして、持ち込んだソフトを充分に聴かせて頂いた。目をつ ぶってしまえば、スピーカーの存在が霧の如く消えてしまう魔法のスピーカーの商品化 が待ち遠しく思われた。スピーカーの外側に対して球面波の再生を目指してデザインし ていったら、内側に向かっては無限大バッフルの実現というオマケが付いてきた。ある いはまったくその逆かもしれない。現在、ちょうどこれと同じコンセプトで作られたス ピーカーが私のフロアーに置いてあって毎日楽しく聴いている。ゴールドムンドのアポ ローグである。これもウーファー用エンクロージャーの内部は特殊な音響迷路となって おり、ウーファーの後側に放出される背圧の何と98%を吸収してしまうというものだ 。無限大バッフルの功罪は低域と中高域とに別けて考えなくてはならない。中高域につ いては無限大バッフルが存在することによって、ユニットの発する音波の波長が短い場 合には、その広大な面積が反射面となり立体的な音場創造にはマイナスになるかもしれ ない。これは実験していないので推測でしかないが、奥行きを感じるためにはユニット 後方の空間と壁があった方が良い結果が得られるのではないかと思う。 しかし、低域については話が変わって来る。ユニットの背圧をどうするかでエンクロ ージャーの基本設計が変わってしまう。背圧を積極的に利用する方法としてバックロー ドホーン型とバスレフ型があるが、時間的な遅れと低音楽器の音像の肥大は避けがたい 副産物となる。また、ユニットの背圧による低音の増強をあてにしない方法として密閉 型エンクロージャーがあるが、箱の中の空気の密閉によって振動板のピストン運動に対 して制動が働いてしまう。この制動が十分なコントロール下にあれば問題ないが、箱の 中の空間を構成する三次元的な寸法比によっては共鳴現象が発生し、特定周波数での大 振幅・大音量再生では正確に動作せず音にならない。従って、背面の音波を吸収してユ ニットに折り返した反射エネルギーが影響を与えないという事が、無限大バッフルの低 域に関してこの上もないメリットとして考えられる。ただし、吸収するのは音波だけで あって空気圧を逃がす必要はある。また、演出として低域だけにパッシブラジエーター を採用することも面白い方法だが、このラジエーター機構に何らかの制動効果を持たせ ないとバスレフと同様な質感に陥ることもある。いずれにせよ、見事な音像と音場感を 再現するノーチラスに惚れ込んでしまった。ただ、残念なことに池袋のオーディオ・フ ェアで、展示だけをした後に解体してしまうということだ。エンクロージャーの解析を してデジタル・チャンネルディバイダーのソフト開発を始めるためのデータを引き出し てフィリップス社との共同開発を進めていくということである。世俗的な一般論では誘 惑に負けてしまうと、ロクでもないことになるのが多いようだが、今回の訪問は日本で もほんの数人しか実現出来なかった、理論と現実の接点を体験出来る貴重な経験となっ た。帰路の首都高速では新宿の高層ビル群が美しく輝き、ノーチラスとの再会を夢見る のであった。 【完】 |
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